はじめに
山田風太郎といえば『甲賀忍法帖』や『警視庁草紙』などを書いた時代小説の大家というイメージがあるが、もともとは江戸川乱歩に見出され推理小説でデビューした人だった。
……と思っていたが、実は風太郎はデビュー以前に『受験旬報』(後に『蛍雪時代』に改称)に受験生を主人公にした学生小説を大量に投稿していたようだ。
ほとんど高校の進路相談室の片隅でしか見かけない現代の『蛍雪時代』とは異なり、当時の『受験旬報』は今の東大・京大にあたる第一高等学校・第三高等学校の合格者の半数以上を読者に持つ*1、超大手受験雑誌だった。
同世代の受験生の多くが、のちの大作家・山田風太郎の誕生を知らず知らずのうちに目撃していたことになる。その中には、のちに風太郎とともに時代小説シーンを牽引していく司馬遼太郎こと福田定一の名前もあった。
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風太郎は1940年から1944年にかけて4年間の浪人生活と受験失敗を経験している。後半の2年間は、身一つで但馬の実家を飛び出し、東京の軍需工場で働きながらの浪人生活だった。リアル受験生・苦学生の書く小説を当時の受験雑誌はどのように位置づけ、読者はどのように読んだのだろうか。
山田風太郎は1947年、探偵小説専門誌『宝石』が募集した第一回懸賞小説に「達磨峠の事件」で当選し、作家デビューした。
しかし、風太郎の小説が世に発表されたのはこの「達磨峠の事件」が始めてではなかった。すでに旧制豊岡中学在学中の1940年、欧文社(現・旺文社)の添削会報『受験旬報』の懸賞小説に「石の下」という作品を投稿し、第一等で掲載されている。そして、「石の下」(『受験旬報』昭和15年2月上旬号)を皮切りに、「鬼面」(昭和15年4月下旬号)、「三年目」(昭和15年10月号)、「陀経寺の雪」(昭和16年1月号)、「鳶」(昭和16年3月号)、「白い船」(昭和16年4月号)と立て続けに6編の小説を発表した。
『受験旬報』が『蛍雪時代』と誌名を変更して月刊誌化してからも筆名を春嶽久と改め、「国民徴用令」(『蛍雪時代』昭和18年5月号)、「勘右衛門老人の死」(昭和18年7月号)、「蒼穹」(昭和18年10月号)と3編を投稿している。
風太郎は後年のエッセイで当時を振り返り、
そのころ寄宿舎で、旺文社(当時欧文社)の受験旬報を取っている者が少くなかった。私はかんじんの勉強の方にはまったく関心がなかったが、この雑誌で毎号募集している学生小説に興味を持った。──
その結果、昭和十五年二月上旬号を皮切りに、合計八回*2掲載され、おしまいには選者から「同じ人が何度も当選するのは感心したことではないが──」と評される始末に立ち到った。*3
と語っている。
過酷で孤独な浪人生活
この間、風太郎は中学校卒業時に松山高校の理科を受験して失敗、翌年は松本高校の文科を受けて落第、また翌年は別の高等学校の理科を受けて不合格だった。そして1942年の秋、育ての親である故郷の叔父の家を飛び出して上京した。時には三畳一間のボロアパートに下宿し、品川にある沖電気の軍需工場に勤めながら、親戚も友人も一人もいない戦時下の東京で孤独な浪人生活が始まる。それは東京医学専門学校に合格する1944年の春まで、約2年間にわたって続いた。
その頃のことは『滅失への青春──戦中派虫けら日記』に詳しいが、中学時代の同級生に送った手紙にも当時の心境が残されている。肉親との確執や、二次試験に体格検査が行われた当時の受験生特有の悩みが、率直に書かれている。
中学卒業以来、一年ほど祖父の家にいた。父も、母も、生みの人とは違うし、家にいるのが辛いからだ。併し、祖父の家も、祖母は継祖母なので、そう愉快じゃなかった。年の暮まで、ぼんやり空ばかり眺めて、大きなことばかり考えていて、年が明けてからあわてて勉強したが、駄目だ。松本高等学校を受けて、例によって一次は通ったが、二次で滑った。中学五年のときもそうだったし、さあ、そうなると、一体、勉強がいけないのやら、体格ではねられたのやら、疑わしくなって、勉強しかけては運動し、運動しかけては勉強している中に、長い間鬱屈していた肉身達との争剋が、機会を摑んで暴れ出し、それに皆どうしても医者になれ、ほかのことは、医者となってから趣味としてやればよいじゃないかと云うのだが、僕は、この短い一生に、そんな二股膏薬が出来るか、飯が食えて、いい趣味を養って、のほほんと暮せたら幸福だと思う人種とは違うんだ。どんなに貧乏したって、自分のこれと思うことを命がけでやって、世界にたった一人の山田誠也と云う人間の生れ甲斐を意義あらしめるんだと、そこは二十歳前だから、底抜けに威張り返って東京へ飛び出してしまった。東京へ来たって、別に大都会に憧れたわけではない。何処に行ったって別に頼りにする人もないんだから、一そ、日本の都へ行ってやれと考えただけの話だ。
君が東京にいるとは知っていたし、探せば探すことも出来たのだが、一寸恥ずかしかったんだ。それはそうさ。僕が会社員になるなんて、僕でさえ想像もしなかったからね。*4
日記には、貧乏生活により経済的以上に心理的な打撃を受けたことも書いていた。医者の家に生まれ、村の坊っちゃんとして育った風太郎にとって、東京での工員暮らしが時に「みじめな」思いをさせたことは想像に難くない。
四ヶ月前上京して来るとき、自分は毫末の夢も持たないつもりでいた。貧乏暮しをすることは覚悟の前であった。しかし、上京以来の貧乏は、その覚悟ほど深刻なものではなかったけれど、心理的には遥かにみじめなものであった。借金をしないですんだ月は一ト月もない。借金をすることも覚悟の前であったが、その時の気持のみじめさは、到底予想の外だった。その借金も、文字通り食うだけのために!
自分の才能に対する疑惑が心に充ちて来る。
来春の受験も、いまのような子供だましの──というより、殆ど何もやらないにひとしい状態では、合格できようとは思われない。*5
そして、本人が書いているとおり受験勉強は「殆ど何も」できていなかったのである。
朝7時半から午後5時半までの工場での勤務*6に加えて、おびただしい量の本を読む時間が必要だった。日記には*7、上京してから半年間で「読んだ雑書」の書名がざっと数えて121も挙げられている。ボッカチオ『デカメロン』、滝沢馬琴『近世説美少年録』といった文学書から、徳富蘇峰『近世日本国民・吉宗篇』『同・天保改革篇』のような歴史書、小酒井不木『殺人論・毒及毒殺論』といったものまで幅広いジャンルの本が挙げられているが、試験に役立ちそうなものはあまりない。「これだけこんなものを読んでちゃ、入学試験に通るワケがない」という本人の言葉通り、環境も本人の意志も、苦心して勉強に打ち込む他の受験生とは程遠いところにあった。
受験雑誌が求めた勤勉・努力・勝利の物語
風太郎の受験小説は、こうした非一般受験生的境遇において書かれたものだったが、それが掲載された『受験旬報』『蛍雪時代』の読者は一体何を求めて受験雑誌を購読していたのだろうか。
教育史研究者の竹内洋は、1929年の『受験と学生』という雑誌に第一高等学校入学生が寄稿した以下のエッセイを紹介しながら、「まさに受験雑誌は長年の緊張を保っていく刺激であった。受験雑誌の目玉が合格体験記や失敗談だった所以である」*8としている。
私はそれ〔答案批評や出題傾向などの情報〕よりも、或は夜も碌に眠らずして、苦しい準備を続け、遂に勝利の栄冠を得るに至る幾多の悲壮な受験期、及びその裏にみなぎつてゐる勝利の満足……と言ふ様なものから、強い刺激を受けて、長年月の緊張を保つて行く処に、〔受験雑誌の意義は〕より多く存するものであると考へます。*9
また、メディア史研究者の佐藤卓己は戦中から戦後にかけての『蛍雪時代』を概観して「『螢雪時代』は合格体験記を読んで受験生活のテンションを維持するモラル装置だったのである。〔中略〕『螢雪時代』にふれることで、誰でも可能性において大学生予備軍の気分と帰属意識を共有できたのである」*10と結論づけている。
合格体験記の中で描かれるのは、1日11〜12時間の勉強スケジュールを詰め込んだ日程表、参考書を用いた暗記術、神経衰弱や性欲の克服などであり、自分がいかに強い意志で誘惑に打ち勝ち努力して合格を勝ち取ったかを誇示するストーリーだった。
こうした合格体験記を通じて受験雑誌の読者が共有した意識を竹内洋は「努力と勤勉の受験的生活世界の物語」*11と表現している。
とすると、読者は合格体験記のみならず受験雑誌に掲載される小説にも、この勤勉・努力・勝利の物語を求めていたのではないだろうか。
『蛍雪時代』に掲載された読者投稿の「学生短篇小説小評」という文章では、直近号に掲載された作品を取り上げて「家族制度といふ地磐の上から、新しい時代と共に芽生えて行く、青年の情熱と、之が「後押し」をする兄弟愛との、雄々しくも美しい結合」*12を称賛している。
総力戦体制下の厳しい用紙統制の中で、軍人の寄稿記事や座談会を積極的に掲載し時局的要素を強めていった『蛍雪時代』*13の読者には特に、こうした時局に合致する物語が好まれていたのだろう。
一方で、山田風太郎の受験小説はこうした読者のニーズや雑誌のカラーとはやや離れたところから書き始められたように思われる。『受験旬報』に初めて掲載された「石の下」は「青年の情熱と兄弟愛の雄々しくも美しい結合」どころか、その二つの乖離を題材にしたものだった。
「石の下」──家という重箱
「石の下」はK高校の文科を志望する受験生・源三を主人公とした物語である。源三の生まれた「山の家」は徳川時代から代々医者を続けてきた医者の家だが、次男の源三は家を継ぐ「重荷」を背負わずに生きてきた。ところが、病死した父の跡を継いでいた源三の兄が、源三の受験を前に突然亡くなってしまう。兄の葬式に帰省した源三は「本家の伯父」を筆頭にした親類の老人や大人たちから口々に、「医者の由緒ある家」を継ぐ責任を説かれ、文科ではなく理科を受けるように迫られる。文科か、理科かの選択を前に源三は自暴自棄になり、「小説を押しやり、參考書を押しやり、何もかも押しやつて」当時の中学生は禁止されていた映画館通いなどをして自堕落に過ごすようになってしまう。
小説は源三が伯父夫婦の娘・道子の励ましを受けて再起を誓い、「文科で立派に家を繼ぐ。伯父さん逹にはきつぱりとさう告げてやる!」と宣言するところで終わっているのだが、先ほど引用した手紙からもわかるように、源三の境遇は現実の風太郎の境遇をほぼそのまま反映したものだった。
「家と云ふ重箱みたいなものに僕は押しこめられた。蓋の上には叔父さんや伯母さんがみんなして乗つかつてゐる」という源三の言葉の通り、「石の下」は受験生を圧しつぶす「家」の重圧を描いた小説だったが、一方でそれをはね返す手段として「源三の逞しい意力」「すべてを解決する熱情」を持ってきた点では、雑誌が求める勤勉・努力・勝利のストーリーに沿った小説でもあった。
「──だから私は無理に醫者になれとは云つてやしないわ」
「ぢや文科にゆけと云ふの? 姉さん」
姉さんはさう云ひたい。けれどもそれは源三の意志の問題である。重い蓋がのしかゝつても何でも、あくまで文科にゆく、と云ふ源三の逞しい意力が必要である。すべてを解決する熱情と云ふ鍵はそこにある。*14
「鬼面」──受験制度が生む親子の確執と憎しみ
第一作「石の下」では熱情と意志の力が問題を解決する従来の受験物語の型に沿った展開が見られたが、以降の作品では次第に型を外れた展開が試みられるようになっていく。
「石の下」に続く作品「鬼面」では、主人公・祐助の目を通して、厳格な伯父と、伯父の息子である浪人生の三郎との対立が描かれた。3年間浪人を繰り返すうちに「堕落」してしまった三郎は、受験制度が親子の確執と憎しみを生むとまで語っている。
「俺のひがんでゐる事は自分で知つてゐる。さうさせたのは受験つていふ制度だ。親爺に俺を憎く思はせたのも受驗つて奴だ」*15
親子の確執というテーマはよほど珍しかったのか、「鬼面」について『受験旬報』の選評はやや困惑気味に「受驗小説としては思い切つた新鮮味のある題材」*16と評し、一等入選の「石の下」より下がる三等入選としている。
「陀経寺の雪」──熱情と努力の敗北
四作目の「陀経寺の雪」では、一高受験失敗を苦に自殺した兄を持つ寺の息子・憲修と、息子を亡くして以来「受驗といふ事實に向かつて、僕達でさへたじたじとなるやうな気概と理解と、そして恐怖の念すら持つてゐるらしい」憲修の父の和尚とが対比的に描かれている。和尚は長男を死なせた後悔からか、勉強以外のことでは憲修に「どんな腹立ちをもねじふせ」優しく接する。一方の憲修は受験勉強もどこか投げやりで、近郷の村の少女・おひろとの恋に夢中になる。ところが、和尚に同情する主人公の柴ら浪人仲間は、
「もし、君も苦しんでゐるのだつたら、君が不自然な道をいつてゐるからだ。今の僕達として正當な生活からそれてゐるからだ」
「……」
「どんな云ひわけをしようと、君が無味乾燥な浪人生活に飽いてゐたのが第一の原因であることは確かだよ。そしてそれを補ふ方法を過つた爲、君の力がかへつて落ちてゆきつゝあることも確かだよ」*17
と憲修を責め、おひろのことを和尚に告げて別れさせてしまう。和尚と憲修は話し合いを持ち、ふたりの間に「言葉以上の炎に似た神秘な愛情が交流し」たように思われ、それ以来憲修は人が変わったように勉強に打ち込むようになった。
ここまでは典型的な受験物語に沿った筋書きであり、「義務の化身」のように勉強に没頭する憲修を見た主人公の
それでいゝのだ。假令、今、齒を食ひしばる程の苦痛を全身に感ずるとも、その結果來春の榮光を身に浴び得るならば、彼自身は勿論、和尚さんや吾々まで嬉しいのだ。さう思つて僕達は死物狂ひの憲修によろこびと期待を抱いてゐたのである。*18
という思いは、無数の合格体験記で繰り返されてきた内容そのものだった。
しかし、「陀経寺の雪」の結末は、熱情と努力の勝利では終わらない。
年が明けて正月を迎え、いよいよ受験の直前に憲修は思いがけず病に倒れる。医師の診断は過労、心労、不眠がたたったことによる、急性肺炎だった。憲修の死を前に、主人公は深い後悔に襲われる。
僕はものがいへなかつた。あゝ、僕達は憲修をかうさせた!
醫者は、過勞、心勞、不眠がその原因だといつた。僕達はゆるみかけた憲修を鞭つて苦痛の圏へ追ひこんだ。併し、憲修が僕達より柔かな肉體を持つてゐることには思ひ及ばなかつた。受驗生活に於て、無理こそは弛緩以上の恐るべき敵ではなからうか?*19
息子を失った悲しみに耐えながら、いたましくも気丈に振る舞う和尚に送られて寺を後にする主人公は「この陀經寺の一年で僕達は何を得た?」と自問せざるを得なかった。受験に向かう彼の胸には将来への希望ではなく、ただ悲しみが去来しているのだった。
今、自分達の歩いてゐる道は銀色にひかる希望の道かも知れぬ。併しこの道のつきる果には、愛すべき親友の眠る家、さびしい二人の老人がすむ憂愁の家があつたのだ。このことは忘れまい。死ぬまで忘れまいと心に呟きながら踏んでゆく山の淡雪にふと人影がさした。顔をあげると、雪の精のように淚ぐんで立つているおひろである。眼をかえして陀經寺を見上げれば、白い障子は永久に閉ぢられてゐた。*20
『受験旬報』の選評も、冒頭から結末に至る「陀経寺の雪」の文章と構成には「見事な圓熟を見せてゐる」と賛辞を惜しまないが、熱情と努力に支えられた受験物語の世界を退けるような内容には、「筋の發展から言へば、憲修を生かしてをく方が自然でもあり、又、一般の望む所であらう。併し、それを死なせた所に、作者が、入試に對して言はんとする何かをほのめかしてゐると言つても言ひ過ぎではないだらう」*21と留保をつけている。
第一作「石の下」で描かれた、受験生にかかる家の重圧──風太郎自身の言葉を借りるなら「肉身達との相剋」──のモチーフは、続く作品「鬼面」「陀経寺の雪」ではより前景化していった。と同時に、それはもはや従来の受験物語的な勤勉・熱情では乗り越えられないものとしたところに、山田風太郎受験小説の特徴があった。
『受験旬報』に掲載された最後の作品「白い船」から2年後、誌名を変更し戦時色を濃くした『蛍雪時代』の懸賞小説に、風太郎は再び小説を投稿し始める。
筆名を山田風太郎から春嶽久と改めた最初の作品「国民徴用令」は、1年間にわたる東京での工員生活の経験に取材した小説だった。しかしそれは、従来の受験物語と異なる独自性をそなえた「山田風太郎」名義の小説とは異なり、『蛍雪時代』誌が求める戦時動員体制を支える物語に沿った小説であった。
「国民徴用令」──産業戦士の体制賛美
「国民徴用令」は主人公の明人が一高に合格するところから始まる。明人は「たつた一年でも、僕はお國の爲にお手傳ひしたい」と両親と仲違いして郷里を飛び出し、東京で工員として働きながら勉強を続け、ついに志望校合格を勝ち取った青年だ。
ところが、工場の上役である「部長」は明人の合格を祝福するどころか、「君は、今國家が君達に何を要求しとるか、知つて居るかね?」と問いただしながら、彼の退社願を退けてしまう。実は明人が働く工場は「去る三月初旬から海軍管理の徴用會社に入つて」おり、「全從業員に對して既に國民徴用令が下りて」いた。部長は「お氣の毒だが一個人の自由、利害、榮達は一切無視して貰はなければならん」と告げ、明人は呆然と立ち尽くす。
そこに、工場に来客していた海軍少佐が現れ、「思ひ給へ君、國民徴用令は、陛下の御召しであることを──」と明人にささやく。少佐にさとされた明人は一高合格に舞い上がっていた自らの「高慢」を恥じ、進学を潔く諦めて産業戦士として戦争遂行に「敢然と挺身する」決意を固めるのだった。
魂の錆を擦り落すやうな恥ぢらひの意識に、明人は双頬を燃え立たせた。國難に遭遇した時、民草の一人々々は個人の希望と私の情念をすてゝ敢然と挺身するのが、日本の傳統であり、われらの祖先の歩んで來た大いなる道ではなからうか、それあるが爲に日本の道統は無窮に伸びる運命を背負へるのではなからうか。その時に彼の頬には、ほのぼのとしたあけぼののやうな微笑みが滲んで來た。*22
単語の選択からストーリーの展開まで、「国民徴用令」はそれまでの「山田風太郎」の受験小説からは考えられないような、体制賛美の物語だった。
編集部の歓迎と風太郎の本心
『蛍雪時代』編集部もこの新人「春嶽久」の登場を歓迎し、選評では「進學と國民徴用令の問題、これは慥かに學徒にとつてさし迫つた身近な問題である。それにも拘らず從來この種のものに正面切つて取組んだ作品は一度も現れなかつた點から言つてこの作品は題材の特異性の上に先づ大きな魅力を潜在させてゐる」、「流れてつきぬ國史の本道に立脚すべき民草の根本道を身を以て闡明しようとする作者の崇高な意志は、大きな成功を齎してゐる」*23と賛辞を惜しまなかった。
さらに海軍士官を主人公にした次作「勘右衛門老人の死」と「国民徴用令」を並べて、「學生小説の最高峰をゆくもの」*24と絶賛している。
とはいえ、作者の本心までもが時局礼賛へと変化したわけではなかった。日記には、旺文社の編集部長が作品中の若者を「清純雄渾」と評したことへの反発と、作品から受ける印象とは正反対の冷静な分析が記され、「国民徴用令」の反響の大きさに驚いて「作者は読者に敗北したのだ」とまで言い切られていた。
自分はいまの若者たちが、部長は「清純雄渾」と評したけれど、必ずしも清純雄渾な魂をもやしているとは信ぜられない。それも一部にはあるかも知れない。また一般的にもそう見えるところがあるにしても、それはごく表面的観念的なものであって、内部には、国家や民族を越えた「人間」としての、戦乱と死に対する絶望が──少なくとも、このあまりに苛烈な地球上の変動に圧倒された絶望が巣くっているように思う。そしてこれは事実だと確信する一方で、それも老いこんだ自分の皮肉な見解であって、やっぱり純真熱烈な青年達とはすでに無縁の人間になってしまったのかも知れないというさびしさも湧く。*25
「国民徴用令」は自分でも思いがけない反響を呼んでいるらしい。旺文社ではこれを掲載するのに厚生省文部省その他いくつかの関係当局に問い合わせ、これが掲載されると毎日数十通の批評が旺文社に飛びこんでいるという。
「淚なくしては読めぬ」という手紙もあるという。
自分は慄然とした。そして恥じ入った。
ああ、純なるものの勝利だ。作者は読者に敗北したのだ。*26
ではなぜ、風太郎は自らの思想にそぐわない作品をあえて書いたのだろうか?
もともと「国民徴用令」「勘右衛門老人の死」は、1943年度入試に失敗して「何もかもこの一戦にかけていたので、文字通りもう一文も金がない」状況で、「懸賞金ほしさに」書き始めたものだった*27。つまり、何が何でも入選、それも一等入選を目指さなければならない状況で書かれたものだった。当然、掲載誌である『蛍雪時代』のカラーに合った物語になったのだ。その甲斐あって作品は両作ともに雑誌に掲載され、風太郎は一等賞金百円を手にしている。
受験小説作家から職業作家への跳躍台
そして、これと似たような状況は終戦後に再び訪れる。
戦争中に空襲で焼け出された風太郎は同じく焼け出された沖電気時代の上司の家に転がり込み、東京医専に通いながら同居人とともに闇市の手伝いをして食いしのいでいた。そこで金策の手段として、またも懸賞小説に狙いをつける。今度は探偵小説雑誌『宝石』の懸賞小説に「達磨峠の事件」と「雪女」の2作を応募し、前者によって見事入選を果たした。結果的にこれが作家山田風太郎の「デビュー作」となり、小説家の道が開けていくことになる。
シャーロック・ホームズさえ読んだことがなく、「江戸川乱歩って人はまだ生きてたのか」*28とつぶやくほどの学生が、なぜ推理小説作家としてデビューすることができたのか。
一つには本人が後年たびたび語った通り、医専で学んだ法医学の知識があったためだろう。
そしてもう一つ、『蛍雪時代』への投稿を繰り返す中で身につけた、掲載誌の特徴に合わせて作風を変化させる能力が『宝石』への投稿でも生きたのではないだろうか。
受験小説作家・山田風太郎は、不本意ながら体制に迎合した春嶽久時代を経て、職業作家・山田風太郎に転身できるだけの力を養っていたのである。
おわりに
風太郎は後年のエッセイで、受験雑誌にたびたび載った山田風太郎の名前を覚えている読者が後々までいたことを明かしている。
〔当時の小説は〕何しろ中学生だから、いま数行と読むにたえない稚拙なものだが、ふしぎなことに、いままで旅行して地方の老医などと酒を呑む機会があったとき、山田風太郎の名はよく知っています、ただしいまのあなたではなく、中学時代の山田風太郎です、といわれたことが何度かある。しかも、「実は私も当時小説家になりたいと考えてたのだが、あれを読んであきらめました」と述懐した人が、一人ならずあった。*29
小説家になりたい、と考えていたかどうかは定かでないが、当時の風太郎小説の読者の中には、司馬遼太郎のような後に作家として活躍する同世代がいた可能性があることは、はじめに触れた通りだ。
同時代に生きた歴史上の有名人が意外な場所で偶然クロスオーバーするというのは、『警視庁草紙』に代表される風太郎伝奇小説の得意技だが、無名時代の山田風太郎の小説をこれまた無名の司馬遼太郎ら戦中派の作家が目にしていた可能性を思うと、そこからまた新たな物語が生まれる予感を感じないだろうか。
もし現代に山田風太郎がいたら──きっと昭和の山田風太郎を題材に小説を書いたに違いない。