とろろ豆腐百珍

読んだ本の感想などを書きます

中島敦の李陵を読み直したらやっぱりよかった

 中島敦の『李陵』を久しぶりに読んだ。多分10年ぶりに。

 高校3年の春、大学受験があらかた終わりかけた頃に、その日の受験会場のついでに回った神保町の三省堂書店新潮文庫の『李陵・山月記』を買って読んだのが最初だから、あれから本当に10年が経ったのだ。

 それまで教科書にのっているような作家の本はほとんど読んでこなかった私が、「文学っておもしろいかも?」と気づくきっかけになった作品で、そのまま大学では文芸サークルに入り、いわゆる純文学的なものを読み出すようになったのだから、かなり思い入れの強い作品でもある。

 

『李陵』の何がいいって、もう百回言われているだろうけど、文章のリズムが気持ちいい。

「極目人煙を見ず、稀に訪れるものとては曠野に水を求める羚羊ぐらいのものである」だし、「突兀と秋空を劃る遠山の上を高く雁の列が南へ急ぐ」もヤバい。

 んでもって、日常生活では絶対目にしない漢字がズラッと並ぶ字面も意味わからんくてかっこいい。

「辺塞遮虜鄣(へんさい しゃりょしょう)」に、「因杅将軍公孫敖(いんうしょうぐん こうそんごう)」ですよ。

「楚の屈原の憂憤を叙して、その正に汨羅に身を投ぜんとして作る所の懐沙之賦」はもう最強のパンチライン。ゆうふんをじょしてでブチ上がるし、まさにべきらにみをとうぜんのとこは百回リピートしたい。

 

 今度は岩波文庫の『山月記・李陵』の版で読んだのもあって、前に読んだときとは違う印象があった。

 例えば漢人でありながら匈奴に積極的に協力する衛律という人のこと。

 匈奴に降るか否かを宿命的な大問題として思い悩む李陵や蘇武に対して、あっさりと亡命先の風習に同化してセカンドライフを生きる衛律がなんだか軽やかに見えてくる(情けないよでたくましくもある)。

 衛律については「先年協律都尉李延年の事に坐するのを懼れて、亡げて匈奴に帰したのである」と語られているが、岩波の注では李延年は兄弟の李広利将軍が匈奴に降伏した後に誅殺されたことになっている。

 李広利将軍は李陵が捕らえられた後もたびたび匈奴に遠征していることが書かれているので、李陵が匈奴に来てすぐに衛律と出会っているのは前後関係のつじつまが合わない。ヘンだと思って調べてみても衛律がいつ匈奴に来たのかはわからなかった。

 蘇武が捕まったときに匈奴王の使者に衛律が立てられたことは『漢書』に記述があるので、衛律→蘇武→李陵の順番で匈奴に来たことは間違いないのだけれど。

 李延年も没年不詳の人物だが、衛律の動向からすると李広利より後に殺されたというのは考えられなさそうだ。おそらく蘇武が匈奴に派遣された天漢元年(紀元前100年)の前に李延年は失脚している。李広利は征和三年(紀元前90年)に匈奴に降伏し、翌年衛律に怨まれて処刑された。

 

漢書』に記載された、この李延年・李広利兄弟とその妹で武帝に寵愛された李夫人の三人の人生もそれぞれ面白い。

 歌うたいの一族の娘が皇帝に愛されてその兄弟も出世し、一人は天才詩人・司馬相如と出会い宮廷音楽家に、一人は遥か中央アジアの大宛国(フェルガナ)を征服する軍人になるも、不治の病を得て娘が早逝したのを機に暗雲が立ち込め出す……。宮女と密通する末弟! 后の面影を求めて狂い出す皇帝! 大砂漠の探検行! 宮廷に蔓延する呪術と密告! 武帝時代末期はそりゃ司馬遷も呆れるわといった感じの雰囲気で、ドロドロのドラマ化待ったなし(李夫人とは別の后が主人公のドラマはもうある)。

『李陵』の硬派さに惹かれていろいろ文学作品を読むようにはなったけど、最近はまた、やっぱりこういう分かりやすいドラマが好きだなあと思い直してもいる。

 

 

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What's the 青一髪?

 西暦一六三七年十二月中旬。

 水天をわかつ青一髪もなく、ただ灰色に泡だつ荒涼たる海からくる風は、山と森をその海の波のように吹きどよもした。その秋、ぶきみに焼けた夕雲の下に無数の白花をつけて、人々をおののかせた枯木も、いまは空もくらむほど、もの凄じい枯葉をとばせるばかり。──そして、自然のみならず、ここ天草島の人々も、血と火の風のなかにそよいでいた。

 

 これは山田風太郎『不知火軍記』の書き出しだが、この「水天をわかつ青一髪」って何だろう。私の知らない古い言い回し?

 調べてみると、江戸時代の学者・頼山陽漢詩に「水天髣髴青一髪」という一節があるらしい。

 海と空とが接するあたりに、かすかに髪の毛一筋ほどの青いものがぼんやりと見える。

 といった意味で、「水天髣髴」で四字熟語にもなっているようだから、私は知らなかったけどそれなりに有名な一節なんでしょう。

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 その「水天をわかつ青一髪」すらも見当たらないのだから、冒頭の情景描写は暗雲垂れるそれはもう不穏な荒天の海を言い表したものということになる。

 ところで頼山陽漢詩のタイトルは「泊天草洋」、読み下すと「天草の洋(なだ)に泊す」ということだ。作者が九州・天草を訪れたときの光景を詠み込んだ詩が「泊天草洋」。書き出しの中にもあるように『不知火軍記』の舞台も天草島なので、山田風太郎はあえて同じ天草を舞台にした有名な漢詩の一節をアレンジして、書き出しの文章に盛り込んだのだろう。

 もちろん水天彷彿青一髪を知らなくても問題なく楽しめるように小説は書かれているのだけれど、そんなオマージュがあったんだと知ると、先行作品と遠く響き合うハーモニーを感じて嬉しくなる。

『不知火軍記』は他にも柳亭一門の合巻『白縫譚』を下敷きにしているようであったり、終盤の展開がユゴーの大河小説『九十三年』を換骨奪胎したものだったりと、いろいろな過去の創作の要素が一作の中に詰まっているようだ。

 

 同じ文庫本に収録されていた『幻妖桐の葉おとし』もすごい。

 大坂の役前夜の慶長十六年、七人の親豊臣派の大名が秀吉の遺言解読を託されるも次々に変死を遂げていくというあらすじだが、最初に七人の大名が集うシーンの章題が「桐七葉」。

 これは同じく大阪の役前夜、豊臣を支えるためにひとり奔走する武将を主人公にした坪内逍遥作の歌舞伎『桐一葉』をもじったものだ。『甲賀忍法帖』の「甲賀ロミオと伊賀ジュリエット」、『魔界転生』の「魚心水心」と同じで、こういう遊びが好きな人だなあと感心するがそれだけではない。

 秀吉の側室淀殿を悪役に据えてその妄執を描いた『桐一葉』に対して、『幻妖桐の葉おとし』では秀吉の正室北政所(ねね)の妄執が事件の根幹に関わってくる、いわば淀殿ではなく「ねねの桐一葉」ともいえる作品なのだ。

 悪女扱いされてきた淀殿を相対化しながら、北政所の嫉妬や欲をかなしく、うつくしく、作中の言葉を借りれば「太閤、大御所以上の」すさまじいものとして描ききる。

 『妖異金瓶梅』と同じく、『幻妖桐の葉おとし』からも女性の欲望を肯定して解放する圧倒的パワーを感じる。

 先行作品へのオマージュから始まりつつ、それを裏返して独特の世界を作り出す作者の力量にしびれる作品で、おすすめです。

 

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男の絆の比較文化史、妖異金瓶梅

 佐伯順子『男の絆の比較文化史』を読んだ。男色、衆道、同性愛、少年愛、あるいは友情といった言葉で表現される男性同士の親密な関係性=〈男の絆〉がどう描かれてきたか、中世の稚児物語から現代の漫画までを通して概観できる本。夏目漱石の『坊っちゃん』や三島由紀夫の『禁色』、トーマス・マンヴェニスに死す』など有名な作品を入り口に、この分野の歴史をコンパクトに知れてよかった。 

 

 

〈男の絆〉の歴史というと、ともすれば「日本は古来から男色や衆道の伝統がある同性愛に寛容な国だった」といった日本スゴい論や「日本独自の美意識」といったテーマに回収されがちだが、この本は分析の対象を時代的・地域的に広く取ることで〈男の絆〉を相対化している。

 ドイツやフランスの文学・映像作品、あるいは他の地域の社会制度や人々の心性にも日本の〈男の絆〉と同質のものがあると示すことで、決して日本特有の文化ではないことが指摘されている。

 さらに「衆道」や「男色」の時代から近代にいたるまで、〈男の絆〉の文化が常に女性への蔑視や社会的弱者からの搾取の上に成り立ってきたものであることも明示される。

 日本には昔から「衆道」や「男色」があったというとき、じゃあその「衆道」や「男色」の内実になんら問題がなかったのかというと、そんなわけないじゃんという話であり、このあたりはぜひ本編を読んでもらいたい。

 

 この本の中で印象的だったのが、「視る快楽」(visual pleasure)の暴力性についての議論だ。もとはフェミニズム映画批評の用語である「視る快楽」とは、「美しい」といった価値判断を伴う視線の主体(男性)と、視られる客体(女性)の構図に、能動/受動という二項対立に由来する権力の上下関係が現れるという議論だ。

 日本中世の稚児物語や『ヴェニスに死す』、『禁色』などの〈男の絆〉の世界では、美しい少年を眺める年長者というかたちで、「視る快楽」が常に年上の権力者に独占されている。

 初老の大作家・アッシェンバッハが美貌の少年・タッジオをストーカーさながらにひたすらのぞき視る『ヴェニスに死す』は、権力を持った年長男性の一方的な「窃視の欲望」を描いた物語なのだ。

 

 ところでこの議論を読みながら、男性=権力者のものだった「視る快楽」「窃視の欲望」を女性が奪い返す物語として思い浮かんだのが、山田風太郎『妖異金瓶梅』だった。

 

 

『妖異金瓶梅』の中の一編「妖瞳記」に登場する劉麗華こそ、「窃視の欲望」に囚われた女性である。

 没落した富豪の夫人だった彼女は、家財とともに豪商・西門慶に買われ、第六夫人として囲われることになる。淫らな西門家の家風になじまない気品と神聖美に澄んだ瞳から、神女とも泥中の白蓮とも讃えられる彼女だが、それだけに色気を重んじる西門慶の寵は薄かった。ある夜、部屋の壁に空いた小さな穴から西門慶と第五夫人・潘金蓮の秘戯を盗み見たことから、彼女は「のぞきの快楽」に夢中になっていく。

 

 あさましいとも思う。恐ろしいとも思う。けれど麗華はいまやどうしても夜な夜なこの凄愴の鬼気をすらおびた色地獄を盗み見にこずにはいられなかった。この神女の瞳にも似た美しい眼は、のぞきの快楽のためにこそ生きていたのだ。

 

 ここに表れているのは、金で買われる社会的弱者であり、〈聖なるもの〉としてセクシュアリティを奪われた女性*1の側にも、欲望が存在するという事実である。

 彼女の視線は常に、夫である西門慶ではなく潘金蓮に向けられている。

 

(……)彼女は潘金蓮の痴態をみた。(……)

 のけぞりかえって笑う金蓮を。──身をよじらせてもだえぬく金蓮を、──馬のように四つン這いになった裸の金蓮を。──また逆に西門慶を馬にしてのりまわす金蓮を、──或いは西門慶の背なかに両手と両足をからませてしがみついたまま、西門慶を歩かせたり、踊らせたりする金蓮を。

 夜の潘金蓮は、ひるま女同士のつきあいでみる金蓮とはまったく別の女であった。西門慶にからみついた白い手足は、奇怪に四本とみえず、無数の蛇のもつれとみえた。さしもの西門慶が全身の体液をしぼりつくしてからからになったようなのに、なお執拗に金蓮の唇と舌が這いまわって彼をのたうちまわらせた。

 

『妖異金瓶梅』は西門慶の寵をめぐって争う夫人たち、という体裁をとりながら、実は「稀代の淫婦」潘金蓮の欲望を讃える物語である。それは原作『金瓶梅』の主人公である西門慶ではなく、その幇間(たいこもち)であり密かに潘金蓮を崇拝する応伯爵が探偵役を務めていることからも明らかだ。そして、金蓮の小間使いで「同性愛」の相手でもあった龐春梅が「女は──いいえ、人間は、だれでもおなじだということを知ってもらいためなの。(……)もし金蓮さまが淫らな女だったとしたら、女はみんな淫らです」と口にしたように、潘金蓮の欲望は決して「淫らな」彼女だけのものではない。

金瓶梅』というある種のハーレム小説を原案にしながら、視られるだけの存在ではない、主体的な欲望をもった女性を描いたところにも、『妖異金瓶梅』の魅力があると改めて気付かされた。

〈男の絆〉との関連でいえば、第二話「美女と美童」の中で西門慶と応伯爵が交わす「美女と美童の味くらべ論議」は、男色と女色の優劣問答が繰り広げられる江戸時代の『田夫物語』のパロディかもしれない。

*1:『男の絆の比較文化史』では、父権的な性道徳による女性の性への抑圧という側面を内包する聖母マリア信仰を例に引きつつ、”崇拝されつつも性的主体性を奪われた客体”として稚児と女性のジェンダーを論じている。

南の雪とだめになったぼくたち(陸秋槎『雪が白いとき、かつそのときに限り』、魯迅『酒楼にて』)

 陸秋槎の小説『雪が白いとき、かつそのときに限り』を読み返していたら、序章の中に北と南の雪の違いについての一節を見つけた。

 南の土地の雪というのはあまり見栄えのしないもので、縮こまり氷の粒になってしまうか、もしくはべちゃりと広がった姿で一団一団がせっかちに落ちてくるかで、文人が描くような軽さ、風流さとはほど遠かった。*1

 これを読んで、魯迅の『酒楼にて』でも、同じように北方と南方の雪の違いについて触れられていたことを思い出した。

──ここの潤いのある積もる雪は、物に着いたら離れずに、透明でキラキラ光り、北の雪のように乾いて、大風がひとたび吹くや、空一面に霧のように舞い上がったりはしない……*2

『酒楼にて』の舞台は語り手「私」の故郷からほど近いS市、おそらくは作者の故郷紹興だ。「私」≒魯迅とするなら、北から旅をしてきたという「私」が慣れ親しんだ北方は魯迅が当時住んでいた北京のあたりだろうか。『雪が白いとき、かつそのときに限り』の舞台Z市がどこかは明らかになっていないが、長江以南の地方都市だ。

 北京(北緯40度)と紹興(北緯30度)の緯度を日本に置き直してみると、だいたい秋田県八郎潟と鹿児島県口之島のあたり。

 日本の小説ではあまり南北の雪質の違いに注目することがない気がするので、中国ならではの描写に感じて面白かった。

『雪が白いとき、かつそのときに限り』と『酒楼にて』はどちらも「物に着いたら離れずに」「べちゃりと」まとわりつくような青春の挫折をセンチメンタルかつ退廃的に描くという意味でも共通している。

 なにせ、何年ぶりかに立ち寄った故郷のかつて通った居酒屋で旧友と再会し、「だめになった」近況を語り合う『酒楼にて』のストーリーを森田童子の「ぼくたちの失敗」になぞらえて論じる論文がある*3くらいだ。

 そういえば『雪が白いとき、かつそのときに限り』のライブシーンでも「ぼくたちの失敗」が演奏されていた。

 どいつもこいつも「だめになったぼく」に酔っぱらうのが好きすぎる。

 

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*1:陸秋槎著・稲村文吾訳『雪が白いとき、かつそのときに限り』早川書房、2019年、p16。

*2:魯迅著・藤井省三訳『酒楼にて/非攻光文社古典新訳文庫、2010年、p57。

*3:代田智明「ぼくたちの失敗──『酒楼にて』論」『魯迅を読み解く──謎と不思議の小説10篇』東京大学出版会、2006年。

山田風太郎と『蛍雪時代』──戦中派受験小説

はじめに

 山田風太郎といえば『甲賀忍法帖』や『警視庁草紙』などを書いた時代小説の大家というイメージがあるが、もともとは江戸川乱歩に見出され推理小説でデビューした人だった。

 ……と思っていたが、実は風太郎はデビュー以前に『受験旬報』(後に『蛍雪時代』に改称)に受験生を主人公にした学生小説を大量に投稿していたようだ。

 ほとんど高校の進路相談室の片隅でしか見かけない現代の『蛍雪時代』とは異なり、当時の『受験旬報』は今の東大・京大にあたる第一高等学校・第三高等学校の合格者の半数以上を読者に持つ*1、超大手受験雑誌だった。

 同世代の受験生の多くが、のちの大作家・山田風太郎の誕生を知らず知らずのうちに目撃していたことになる。その中には、のちに風太郎とともに時代小説シーンを牽引していく司馬遼太郎こと福田定一の名前もあった。

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 風太郎は1940年から1944年にかけて4年間の浪人生活と受験失敗を経験している。後半の2年間は、身一つで但馬の実家を飛び出し、東京の軍需工場で働きながらの浪人生活だった。リアル受験生・苦学生の書く小説を当時の受験雑誌はどのように位置づけ、読者はどのように読んだのだろうか。

 

 

受験小説作家・山田風太郎

 山田風太郎は1947年、探偵小説専門誌『宝石』が募集した第一回懸賞小説に「達磨峠の事件」で当選し、作家デビューした。

 しかし、風太郎の小説が世に発表されたのはこの「達磨峠の事件」が始めてではなかった。すでに旧制豊岡中学在学中の1940年、欧文社(現・旺文社)の添削会報『受験旬報』の懸賞小説に「石の下」という作品を投稿し、第一等で掲載されている。そして、「石の下」(『受験旬報』昭和15年2月上旬号)を皮切りに、「鬼面」(昭和15年4月下旬号)、「三年目」(昭和15年10月号)、「陀経寺の雪」(昭和16年1月号)、「鳶」(昭和16年3月号)、「白い船」(昭和16年4月号)と立て続けに6編の小説を発表した。

『受験旬報』が『蛍雪時代』と誌名を変更して月刊誌化してからも筆名を春嶽久と改め、「国民徴用令」(『蛍雪時代昭和18年5月号)、「勘右衛門老人の死」(昭和18年7月号)、「蒼穹」(昭和18年10月号)と3編を投稿している。

 風太郎は後年のエッセイで当時を振り返り、

 そのころ寄宿舎で、旺文社(当時欧文社)の受験旬報を取っている者が少くなかった。私はかんじんの勉強の方にはまったく関心がなかったが、この雑誌で毎号募集している学生小説に興味を持った。──

 その結果、昭和十五年二月上旬号を皮切りに、合計八回*2掲載され、おしまいには選者から「同じ人が何度も当選するのは感心したことではないが──」と評される始末に立ち到った。*3

 と語っている。

 

過酷で孤独な浪人生活

 この間、風太郎は中学校卒業時に松山高校の理科を受験して失敗、翌年は松本高校の文科を受けて落第、また翌年は別の高等学校の理科を受けて不合格だった。そして1942年の秋、育ての親である故郷の叔父の家を飛び出して上京した。時には三畳一間のボロアパートに下宿し、品川にある沖電気の軍需工場に勤めながら、親戚も友人も一人もいない戦時下の東京で孤独な浪人生活が始まる。それは東京医学専門学校に合格する1944年の春まで、約2年間にわたって続いた。

 その頃のことは『滅失への青春──戦中派虫けら日記』に詳しいが、中学時代の同級生に送った手紙にも当時の心境が残されている。肉親との確執や、二次試験に体格検査が行われた当時の受験生特有の悩みが、率直に書かれている。

 中学卒業以来、一年ほど祖父の家にいた。父も、母も、生みの人とは違うし、家にいるのが辛いからだ。併し、祖父の家も、祖母は継祖母なので、そう愉快じゃなかった。年の暮まで、ぼんやり空ばかり眺めて、大きなことばかり考えていて、年が明けてからあわてて勉強したが、駄目だ。松本高等学校を受けて、例によって一次は通ったが、二次で滑った。中学五年のときもそうだったし、さあ、そうなると、一体、勉強がいけないのやら、体格ではねられたのやら、疑わしくなって、勉強しかけては運動し、運動しかけては勉強している中に、長い間鬱屈していた肉身達との争剋が、機会を摑んで暴れ出し、それに皆どうしても医者になれ、ほかのことは、医者となってから趣味としてやればよいじゃないかと云うのだが、僕は、この短い一生に、そんな二股膏薬が出来るか、飯が食えて、いい趣味を養って、のほほんと暮せたら幸福だと思う人種とは違うんだ。どんなに貧乏したって、自分のこれと思うことを命がけでやって、世界にたった一人の山田誠也と云う人間の生れ甲斐を意義あらしめるんだと、そこは二十歳前だから、底抜けに威張り返って東京へ飛び出してしまった。東京へ来たって、別に大都会に憧れたわけではない。何処に行ったって別に頼りにする人もないんだから、一そ、日本の都へ行ってやれと考えただけの話だ。

 君が東京にいるとは知っていたし、探せば探すことも出来たのだが、一寸恥ずかしかったんだ。それはそうさ。僕が会社員になるなんて、僕でさえ想像もしなかったからね。*4

 日記には、貧乏生活により経済的以上に心理的な打撃を受けたことも書いていた。医者の家に生まれ、村の坊っちゃんとして育った風太郎にとって、東京での工員暮らしが時に「みじめな」思いをさせたことは想像に難くない。

 四ヶ月前上京して来るとき、自分は毫末の夢も持たないつもりでいた。貧乏暮しをすることは覚悟の前であった。しかし、上京以来の貧乏は、その覚悟ほど深刻なものではなかったけれど、心理的には遥かにみじめなものであった。借金をしないですんだ月は一ト月もない。借金をすることも覚悟の前であったが、その時の気持のみじめさは、到底予想の外だった。その借金も、文字通り食うだけのために!

 自分の才能に対する疑惑が心に充ちて来る。

 来春の受験も、いまのような子供だましの──というより、殆ど何もやらないにひとしい状態では、合格できようとは思われない。*5

 そして、本人が書いているとおり受験勉強は「殆ど何も」できていなかったのである。

 朝7時半から午後5時半までの工場での勤務*6に加えて、おびただしい量の本を読む時間が必要だった。日記には*7、上京してから半年間で「読んだ雑書」の書名がざっと数えて121も挙げられている。ボッカチオ『デカメロン』、滝沢馬琴『近世説美少年録』といった文学書から、徳富蘇峰『近世日本国民・吉宗篇』『同・天保改革篇』のような歴史書小酒井不木『殺人論・毒及毒殺論』といったものまで幅広いジャンルの本が挙げられているが、試験に役立ちそうなものはあまりない。「これだけこんなものを読んでちゃ、入学試験に通るワケがない」という本人の言葉通り、環境も本人の意志も、苦心して勉強に打ち込む他の受験生とは程遠いところにあった。

 

受験雑誌が求めた勤勉・努力・勝利の物語

 風太郎の受験小説は、こうした非一般受験生的境遇において書かれたものだったが、それが掲載された『受験旬報』『蛍雪時代』の読者は一体何を求めて受験雑誌を購読していたのだろうか。

 教育史研究者の竹内洋は、1929年の『受験と学生』という雑誌に第一高等学校入学生が寄稿した以下のエッセイを紹介しながら、「まさに受験雑誌は長年の緊張を保っていく刺激であった。受験雑誌の目玉が合格体験記や失敗談だった所以である」*8としている。

 私はそれ〔答案批評や出題傾向などの情報〕よりも、或は夜も碌に眠らずして、苦しい準備を続け、遂に勝利の栄冠を得るに至る幾多の悲壮な受験期、及びその裏にみなぎつてゐる勝利の満足……と言ふ様なものから、強い刺激を受けて、長年月の緊張を保つて行く処に、〔受験雑誌の意義は〕より多く存するものであると考へます。*9

 

 

 また、メディア史研究者の佐藤卓己は戦中から戦後にかけての『蛍雪時代』を概観して「『螢雪時代』は合格体験記を読んで受験生活のテンションを維持するモラル装置だったのである。〔中略〕『螢雪時代』にふれることで、誰でも可能性において大学生予備軍の気分と帰属意識を共有できたのである」*10と結論づけている。

 合格体験記の中で描かれるのは、1日11〜12時間の勉強スケジュールを詰め込んだ日程表、参考書を用いた暗記術、神経衰弱や性欲の克服などであり、自分がいかに強い意志で誘惑に打ち勝ち努力して合格を勝ち取ったかを誇示するストーリーだった。

 こうした合格体験記を通じて受験雑誌の読者が共有した意識を竹内洋は「努力と勤勉の受験的生活世界の物語」*11と表現している。

 とすると、読者は合格体験記のみならず受験雑誌に掲載される小説にも、この勤勉・努力・勝利の物語を求めていたのではないだろうか。

蛍雪時代』に掲載された読者投稿の「学生短篇小説小評」という文章では、直近号に掲載された作品を取り上げて「家族制度といふ地磐の上から、新しい時代と共に芽生えて行く、青年の情熱と、之が「後押し」をする兄弟愛との、雄々しくも美しい結合」*12を称賛している。

 総力戦体制下の厳しい用紙統制の中で、軍人の寄稿記事や座談会を積極的に掲載し時局的要素を強めていった『蛍雪時代*13の読者には特に、こうした時局に合致する物語が好まれていたのだろう。

 

 一方で、山田風太郎の受験小説はこうした読者のニーズや雑誌のカラーとはやや離れたところから書き始められたように思われる。『受験旬報』に初めて掲載された「石の下」は「青年の情熱と兄弟愛の雄々しくも美しい結合」どころか、その二つの乖離を題材にしたものだった。

 

「石の下」──家という重箱

「石の下」はK高校の文科を志望する受験生・源三を主人公とした物語である。源三の生まれた「山の家」は徳川時代から代々医者を続けてきた医者の家だが、次男の源三は家を継ぐ「重荷」を背負わずに生きてきた。ところが、病死した父の跡を継いでいた源三の兄が、源三の受験を前に突然亡くなってしまう。兄の葬式に帰省した源三は「本家の伯父」を筆頭にした親類の老人や大人たちから口々に、「医者の由緒ある家」を継ぐ責任を説かれ、文科ではなく理科を受けるように迫られる。文科か、理科かの選択を前に源三は自暴自棄になり、「小説を押しやり、參考書を押しやり、何もかも押しやつて」当時の中学生は禁止されていた映画館通いなどをして自堕落に過ごすようになってしまう。

 小説は源三が伯父夫婦の娘・道子の励ましを受けて再起を誓い、「文科で立派に家を繼ぐ。伯父さん逹にはきつぱりとさう告げてやる!」と宣言するところで終わっているのだが、先ほど引用した手紙からもわかるように、源三の境遇は現実の風太郎の境遇をほぼそのまま反映したものだった。

「家と云ふ重箱みたいなものに僕は押しこめられた。蓋の上には叔父さんや伯母さんがみんなして乗つかつてゐる」という源三の言葉の通り、「石の下」は受験生を圧しつぶす「家」の重圧を描いた小説だったが、一方でそれをはね返す手段として「源三の逞しい意力」「すべてを解決する熱情」を持ってきた点では、雑誌が求める勤勉・努力・勝利のストーリーに沿った小説でもあった。

「──だから私は無理に醫者になれとは云つてやしないわ」

「ぢや文科にゆけと云ふの? 姉さん」

 姉さんはさう云ひたい。けれどもそれは源三の意志の問題である。重い蓋がのしかゝつても何でも、あくまで文科にゆく、と云ふ源三の逞しい意力が必要である。すべてを解決する熱情と云ふ鍵はそこにある。*14

 

「鬼面」──受験制度が生む親子の確執と憎しみ

 第一作「石の下」では熱情と意志の力が問題を解決する従来の受験物語の型に沿った展開が見られたが、以降の作品では次第に型を外れた展開が試みられるようになっていく。

「石の下」に続く作品「鬼面」では、主人公・祐助の目を通して、厳格な伯父と、伯父の息子である浪人生の三郎との対立が描かれた。3年間浪人を繰り返すうちに「堕落」してしまった三郎は、受験制度が親子の確執と憎しみを生むとまで語っている。

「俺のひがんでゐる事は自分で知つてゐる。さうさせたのは受験つていふ制度だ。親爺に俺を憎く思はせたのも受驗つて奴だ」*15

 親子の確執というテーマはよほど珍しかったのか、「鬼面」について『受験旬報』の選評はやや困惑気味に「受驗小説としては思い切つた新鮮味のある題材」*16と評し、一等入選の「石の下」より下がる三等入選としている。

 

「陀経寺の雪」──熱情と努力の敗北

 四作目の「陀経寺の雪」では、一高受験失敗を苦に自殺した兄を持つ寺の息子・憲修と、息子を亡くして以来「受驗といふ事實に向かつて、僕達でさへたじたじとなるやうな気概と理解と、そして恐怖の念すら持つてゐるらしい」憲修の父の和尚とが対比的に描かれている。和尚は長男を死なせた後悔からか、勉強以外のことでは憲修に「どんな腹立ちをもねじふせ」優しく接する。一方の憲修は受験勉強もどこか投げやりで、近郷の村の少女・おひろとの恋に夢中になる。ところが、和尚に同情する主人公の柴ら浪人仲間は、

「もし、君も苦しんでゐるのだつたら、君が不自然な道をいつてゐるからだ。今の僕達として正當な生活からそれてゐるからだ」

「……」

「どんな云ひわけをしようと、君が無味乾燥な浪人生活に飽いてゐたのが第一の原因であることは確かだよ。そしてそれを補ふ方法を過つた爲、君の力がかへつて落ちてゆきつゝあることも確かだよ」*17

 と憲修を責め、おひろのことを和尚に告げて別れさせてしまう。和尚と憲修は話し合いを持ち、ふたりの間に「言葉以上の炎に似た神秘な愛情が交流し」たように思われ、それ以来憲修は人が変わったように勉強に打ち込むようになった。

 ここまでは典型的な受験物語に沿った筋書きであり、「義務の化身」のように勉強に没頭する憲修を見た主人公の

 それでいゝのだ。假令、今、齒を食ひしばる程の苦痛を全身に感ずるとも、その結果來春の榮光を身に浴び得るならば、彼自身は勿論、和尚さんや吾々まで嬉しいのだ。さう思つて僕達は死物狂ひの憲修によろこびと期待を抱いてゐたのである。*18

 という思いは、無数の合格体験記で繰り返されてきた内容そのものだった。

 しかし、「陀経寺の雪」の結末は、熱情と努力の勝利では終わらない。

 年が明けて正月を迎え、いよいよ受験の直前に憲修は思いがけず病に倒れる。医師の診断は過労、心労、不眠がたたったことによる、急性肺炎だった。憲修の死を前に、主人公は深い後悔に襲われる。

 僕はものがいへなかつた。あゝ、僕達は憲修をかうさせた!

 醫者は、過勞、心勞、不眠がその原因だといつた。僕達はゆるみかけた憲修を鞭つて苦痛の圏へ追ひこんだ。併し、憲修が僕達より柔かな肉體を持つてゐることには思ひ及ばなかつた。受驗生活に於て、無理こそは弛緩以上の恐るべき敵ではなからうか?*19

 息子を失った悲しみに耐えながら、いたましくも気丈に振る舞う和尚に送られて寺を後にする主人公は「この陀經寺の一年で僕達は何を得た?」と自問せざるを得なかった。受験に向かう彼の胸には将来への希望ではなく、ただ悲しみが去来しているのだった。

 今、自分達の歩いてゐる道は銀色にひかる希望の道かも知れぬ。併しこの道のつきる果には、愛すべき親友の眠る家、さびしい二人の老人がすむ憂愁の家があつたのだ。このことは忘れまい。死ぬまで忘れまいと心に呟きながら踏んでゆく山の淡雪にふと人影がさした。顔をあげると、雪の精のように淚ぐんで立つているおひろである。眼をかえして陀經寺を見上げれば、白い障子は永久に閉ぢられてゐた。*20

『受験旬報』の選評も、冒頭から結末に至る「陀経寺の雪」の文章と構成には「見事な圓熟を見せてゐる」と賛辞を惜しまないが、熱情と努力に支えられた受験物語の世界を退けるような内容には、「筋の發展から言へば、憲修を生かしてをく方が自然でもあり、又、一般の望む所であらう。併し、それを死なせた所に、作者が、入試に對して言はんとする何かをほのめかしてゐると言つても言ひ過ぎではないだらう」*21と留保をつけている。

 第一作「石の下」で描かれた、受験生にかかる家の重圧──風太郎自身の言葉を借りるなら「肉身達との相剋」──のモチーフは、続く作品「鬼面」「陀経寺の雪」ではより前景化していった。と同時に、それはもはや従来の受験物語的な勤勉・熱情では乗り越えられないものとしたところに、山田風太郎受験小説の特徴があった。

 

山田風太郎から春嶽久へ

『受験旬報』に掲載された最後の作品「白い船」から2年後、誌名を変更し戦時色を濃くした『蛍雪時代』の懸賞小説に、風太郎は再び小説を投稿し始める。

 筆名を山田風太郎から春嶽久と改めた最初の作品「国民徴用令」は、1年間にわたる東京での工員生活の経験に取材した小説だった。しかしそれは、従来の受験物語と異なる独自性をそなえた「山田風太郎」名義の小説とは異なり、『蛍雪時代』誌が求める戦時動員体制を支える物語に沿った小説であった。

 

「国民徴用令」──産業戦士の体制賛美

「国民徴用令」は主人公の明人が一高に合格するところから始まる。明人は「たつた一年でも、僕はお國の爲にお手傳ひしたい」と両親と仲違いして郷里を飛び出し、東京で工員として働きながら勉強を続け、ついに志望校合格を勝ち取った青年だ。

 ところが、工場の上役である「部長」は明人の合格を祝福するどころか、「君は、今國家が君達に何を要求しとるか、知つて居るかね?」と問いただしながら、彼の退社願を退けてしまう。実は明人が働く工場は「去る三月初旬から海軍管理の徴用會社に入つて」おり、「全從業員に對して既に國民徴用令が下りて」いた。部長は「お氣の毒だが一個人の自由、利害、榮達は一切無視して貰はなければならん」と告げ、明人は呆然と立ち尽くす。

 そこに、工場に来客していた海軍少佐が現れ、「思ひ給へ君、國民徴用令は、陛下の御召しであることを──」と明人にささやく。少佐にさとされた明人は一高合格に舞い上がっていた自らの「高慢」を恥じ、進学を潔く諦めて産業戦士として戦争遂行に「敢然と挺身する」決意を固めるのだった。

 魂の錆を擦り落すやうな恥ぢらひの意識に、明人は双頬を燃え立たせた。國難に遭遇した時、民草の一人々々は個人の希望と私の情念をすてゝ敢然と挺身するのが、日本の傳統であり、われらの祖先の歩んで來た大いなる道ではなからうか、それあるが爲に日本の道統は無窮に伸びる運命を背負へるのではなからうか。その時に彼の頬には、ほのぼのとしたあけぼののやうな微笑みが滲んで來た。*22

 単語の選択からストーリーの展開まで、「国民徴用令」はそれまでの「山田風太郎」の受験小説からは考えられないような、体制賛美の物語だった。

 

編集部の歓迎と風太郎の本心

蛍雪時代』編集部もこの新人「春嶽久」の登場を歓迎し、選評では「進學と國民徴用令の問題、これは慥かに學徒にとつてさし迫つた身近な問題である。それにも拘らず從來この種のものに正面切つて取組んだ作品は一度も現れなかつた點から言つてこの作品は題材の特異性の上に先づ大きな魅力を潜在させてゐる」、「流れてつきぬ國史の本道に立脚すべき民草の根本道を身を以て闡明しようとする作者の崇高な意志は、大きな成功を齎してゐる」*23と賛辞を惜しまなかった。

 さらに海軍士官を主人公にした次作「勘右衛門老人の死」と「国民徴用令」を並べて、「學生小説の最高峰をゆくもの」*24と絶賛している。

 とはいえ、作者の本心までもが時局礼賛へと変化したわけではなかった。日記には、旺文社の編集部長が作品中の若者を「清純雄渾」と評したことへの反発と、作品から受ける印象とは正反対の冷静な分析が記され、「国民徴用令」の反響の大きさに驚いて「作者は読者に敗北したのだ」とまで言い切られていた。

 自分はいまの若者たちが、部長は「清純雄渾」と評したけれど、必ずしも清純雄渾な魂をもやしているとは信ぜられない。それも一部にはあるかも知れない。また一般的にもそう見えるところがあるにしても、それはごく表面的観念的なものであって、内部には、国家や民族を越えた「人間」としての、戦乱と死に対する絶望が──少なくとも、このあまりに苛烈な地球上の変動に圧倒された絶望が巣くっているように思う。そしてこれは事実だと確信する一方で、それも老いこんだ自分の皮肉な見解であって、やっぱり純真熱烈な青年達とはすでに無縁の人間になってしまったのかも知れないというさびしさも湧く。*25

 

「国民徴用令」は自分でも思いがけない反響を呼んでいるらしい。旺文社ではこれを掲載するのに厚生省文部省その他いくつかの関係当局に問い合わせ、これが掲載されると毎日数十通の批評が旺文社に飛びこんでいるという。

「淚なくしては読めぬ」という手紙もあるという。

 自分は慄然とした。そして恥じ入った。

 ああ、純なるものの勝利だ。作者は読者に敗北したのだ。*26

 ではなぜ、風太郎は自らの思想にそぐわない作品をあえて書いたのだろうか?

 もともと「国民徴用令」「勘右衛門老人の死」は、1943年度入試に失敗して「何もかもこの一戦にかけていたので、文字通りもう一文も金がない」状況で、「懸賞金ほしさに」書き始めたものだった*27。つまり、何が何でも入選、それも一等入選を目指さなければならない状況で書かれたものだった。当然、掲載誌である『蛍雪時代』のカラーに合った物語になったのだ。その甲斐あって作品は両作ともに雑誌に掲載され、風太郎は一等賞金百円を手にしている。

 

受験小説作家から職業作家への跳躍台

 そして、これと似たような状況は終戦後に再び訪れる。

 戦争中に空襲で焼け出された風太郎は同じく焼け出された沖電気時代の上司の家に転がり込み、東京医専に通いながら同居人とともに闇市の手伝いをして食いしのいでいた。そこで金策の手段として、またも懸賞小説に狙いをつける。今度は探偵小説雑誌『宝石』の懸賞小説に「達磨峠の事件」と「雪女」の2作を応募し、前者によって見事入選を果たした。結果的にこれが作家山田風太郎の「デビュー作」となり、小説家の道が開けていくことになる。

 シャーロック・ホームズさえ読んだことがなく、「江戸川乱歩って人はまだ生きてたのか」*28とつぶやくほどの学生が、なぜ推理小説作家としてデビューすることができたのか。

 一つには本人が後年たびたび語った通り、医専で学んだ法医学の知識があったためだろう。

 そしてもう一つ、『蛍雪時代』への投稿を繰り返す中で身につけた、掲載誌の特徴に合わせて作風を変化させる能力が『宝石』への投稿でも生きたのではないだろうか。

 受験小説作家・山田風太郎は、不本意ながら体制に迎合した春嶽久時代を経て、職業作家・山田風太郎に転身できるだけの力を養っていたのである。

 

おわりに

 風太郎は後年のエッセイで、受験雑誌にたびたび載った山田風太郎の名前を覚えている読者が後々までいたことを明かしている。

〔当時の小説は〕何しろ中学生だから、いま数行と読むにたえない稚拙なものだが、ふしぎなことに、いままで旅行して地方の老医などと酒を呑む機会があったとき、山田風太郎の名はよく知っています、ただしいまのあなたではなく、中学時代の山田風太郎です、といわれたことが何度かある。しかも、「実は私も当時小説家になりたいと考えてたのだが、あれを読んであきらめました」と述懐した人が、一人ならずあった。*29

 小説家になりたい、と考えていたかどうかは定かでないが、当時の風太郎小説の読者の中には、司馬遼太郎のような後に作家として活躍する同世代がいた可能性があることは、はじめに触れた通りだ。

 同時代に生きた歴史上の有名人が意外な場所で偶然クロスオーバーするというのは、『警視庁草紙』に代表される風太郎伝奇小説の得意技だが、無名時代の山田風太郎の小説をこれまた無名の司馬遼太郎ら戦中派の作家が目にしていた可能性を思うと、そこからまた新たな物語が生まれる予感を感じないだろうか。

 もし現代に山田風太郎がいたら──きっと昭和の山田風太郎を題材に小説を書いたに違いない。

 

*1:1937年の第一高等学校合格者287名中160名(55%)、第三高等学校合格者231名中148名(64%)が『受験旬報』の読者だった。佐藤卓己「『螢雪時代』「来春」を幻視する受験雑誌」(佐藤卓己編『青年と雑誌の黄金時代──若者はなぜそれを読んでいたのか』岩波書店、2015年、p8)。

*2:実際は『受験旬報』『蛍雪時代』に合わせて9回掲載された。

*3:山田風太郎「風眼帖」『山田風太郎全集 合報』講談社、1971〜1973年。引用は山田風太郎『わが推理小説零年』ちくま文庫、2016年、p321から。

*4:有本倶子編『山田風太郎疾風迅雷書簡集』神戸新聞総合出版センター、2004年、p135〜136。吉田靖彦宛、昭和18年8月12日消印。

*5:山田風太郎『滅失への青春──戦中派虫けら日記』大和書房、1973年。引用は山田風太郎『戦中派虫けら日記』ちくま文庫、1998年、p53から。昭和17年12月19日条。

*6:戦況の逼迫に伴い、1943年秋には勤務時間が8時間から10時間に延長されたことが日記に書かれている。「去年までは、十月からは朝八時出勤であったが、今年は十月になっても七時半の由。そして今までは午後四時退社であったが、これが午後五時半に延長される旨発表。八時間勤務が十時間になったのである」。山田風太郎、前掲書、p248。昭和18年9月27日条。

*7:山田風太郎、前掲書、p194〜196。昭和18年3月31日条。

*8:竹内洋『立志・苦学・出世──受験生の社会史』講談社現代新書、1991年。引用は竹内洋『立志・苦学・出世──受験生の社会史』講談社学術文庫、2015年、p101から。

*9:「勝利への行進曲」『受験と学生』第12巻1号、1929年。引用は竹内洋、前掲書、p100から。

*10:佐藤卓己、前掲論文、p18。

*11:竹内洋、前掲書、p101。

*12:富山健一「学生短篇小説小評」『蛍雪時代』1942年4月号、旺文社、p180。

*13:『受験旬報』『蛍雪時代』を出版する欧文社(旺文社)は、戦時下に「日本屈指の独裁者」(清沢洌)と恐れられた情報局情報官・鈴木庫三の支援を受けながら、出版界屈指の雑誌社にのし上がった存在だった。用紙統制のため他社の雑誌の整理統合が進められていた1940年8月には、「日本学徒革新的綜合雑誌」として『新若人』を創刊している。添削会報『受験旬報』から月刊誌『蛍雪時代』への拡大もその延長線上にあった。佐藤卓己、前掲論文、p10。

*14:山田風太郎「石の下」『受験旬報』昭和15年2月上旬号、旺文社。引用は山田風太郎『橘傳來記──山田風太郎初期作品集──』出版芸術社、2008年、p77から。

*15:山田風太郎「鬼面」(『受験旬報』昭和15年4月下旬号、旺文社。引用は前掲書、p92から。)

*16:『受験旬報』昭和15年4月下旬号、旺文社、p103。

*17:山田風太郎「陀経寺の雪」『受験旬報』昭和16年1月号、旺文社。引用は前掲書、p137から。

*18:山田風太郎、前傾書、p140。

*19:山田風太郎、前掲書、p141。

*20:山田風太郎、前掲書、p147。

*21:『受験旬報』昭和16年1月号、旺文社、p246。

*22:春嶽久「国民徴用令」『蛍雪時代昭和18年5月号、旺文社。引用は山田風太郎、前掲書、p216。

*23:蛍雪時代昭和18年5月号、旺文社、p117。

*24:蛍雪時代昭和18年7月号、旺文社、p84。

*25:山田風太郎、前掲書、p217〜218昭和18年6月26日条。

*26:山田風太郎、前掲書、p219。昭和18年6月28日条。

*27:山田風太郎、前掲書、p193。昭和18年3月30日条。

*28:山田風太郎「二重の偶然」『別冊文藝春秋』1987年春季号、文藝春秋。引用は山田風太郎、前掲書、p173から。

*29:山田風太郎「二重の偶然」、前掲書、p173。

司馬遼太郎の大阪外語入学年を特定した記録

はじめに

 司馬遼太郎が大阪外国語学校に入学したのは、1941年か、1942年か。

 ふとしたことから、この単純な「年号」の記述が本や論文によって異なることに気がついた。

 結論から言うと、正解は1942年である。

 だが、それを特定するまでがなかなか大変だった。

 司馬遼太郎レベルの超メジャー作家の経歴なんて誤情報が出回ることもないし、調べればすぐにわかるだろうと思っていたのだが、そう簡単にはいかなかったのだ。

 史料批判、と偉そうに言えるレベルではないが、複数の資料に当たって事実を調べる地味な作業も面白いな〜と思ったので、発見から特定に至るまでのプロセスを記録しておこうと思う。

 

 

きっかけは山田風太郎

 きっかけは、山田風太郎の作家デビュー以前の経歴を調べていたことだった。

 風太郎は1947年に探偵雑誌『宝石』の懸賞小説に当選して作家デビューをしているが、実はそれ以前の中学生時代に『受験旬報』や『蛍雪時代』といった受験雑誌に投稿した小説が最初の作品*1だったと聞いて、検索しているうちに江利川春雄さんの以下の記事にたどり着いた。

 

gibsonerich.hatenablog.com

 

 司馬遼太郎(本名・福田定一)が受験生のときに欧文社(現・旺文社)の通信添削会員だったというのだ。昭和十七年度(1942年)合格会員名簿の大阪外国語学校蒙古語部(司馬の出身学校、のちの大阪外国語大学、現・大阪大学国語学部)の欄に「福田定一」の名前がある。

 私が気になったのは1942年合格というその時期だ。なぜなら『受験旬報』(とその後継誌『蛍雪時代』)は欧文社の添削会誌であり、山田風太郎の小説計9作が両誌に次々と掲載された時期もちょうど1940年〜1943年の間だからである。

 

1941年? 1942年?

 へー、ということは司馬遼太郎は作家・山田風太郎誕生の瞬間を目撃していたかもしれないのか……

 と、そのときは思っただけだったが、しばらくして福間良明司馬遼太郎の時代』を読み、つじつまが合わない記述に出くわした。

 

 二年続けて旧制高校受験に失敗した司馬は、〔中略〕一九四一年四月にやむなく進んだのが、旧制専門学校(官立)の大阪外国語学校蒙古語部だった。*2

 

 というのである。

 これでは、先ほどの1942年合格説と1年のズレが生じてしまう。たかが1年の誤差だが、このとき私が知りたかったのは山田風太郎の作品との関係だから、この1年の違いで司馬が受験生時代に読んだかもしれない作品が変わってくる。

 一見、当時の資料である「合格会員名簿」のほうが正しいようだが、『司馬遼太郎の時代』は去年出たばかりで最新の研究を反映しているはずだし、「傍系の学歴と戦争体験」と一章の章題にあるように司馬遼太郎の学歴コンプレックスに光を当てた内容だから、学校の入学年度のような情報を間違えているとも思えない。

 何かの手違いで昨年度の合格者名が名簿に載ってしまったのかもしれないし、かなり可能性は低いが2年連続で「福田定一」が蒙古語科に合格することだって考えられなくはない。

 

インターネットに書いてあることだけじゃわからない

 そこで「司馬遼太郎 大阪外国語学校 年表」「司馬遼太郎 略歴」などのワードで検索をかけてみると、ネットに上げられている年表や研究論文でも1941年説と1942年説が混在していることがわかった。

 

司馬 遼太郎 | 兵庫ゆかりの作家 | ネットミュージアム兵庫文学館 : 兵庫県立美術館 →1941年

 

王海「司馬遼太郎における帝国日本の原体験:大阪外国語学校との関係を中心に」*3 →1942年

 

 特に王海氏の論文と『司馬遼太郎の時代』の間で揺れがあることからみて、司馬遼太郎研究者の間でも知らずしらずのうちにズレが生じてしまっていると思われる。専門家の記述に従えないとなると、どちらが正しいのか素人の私には簡単に判断できなくなってしまった。

 

国会図書館で調べてみる

 インターネット検索では特定ができなかったので、図書館に行った。

 それも東京住みの利点を生かし、日本でいちばん強い図書館、国立国会図書館へ……

 実は初めて訪れたので、利用者カードをつくり、端末で目ぼしい図書を探し……とすべておっかなびっくりやっていった。窓口の人たちはみんな親切でした。

 まずは比較的最近の研究書で、年表の記述がどうなっているのかを調べる。

 

司馬遼太郎書誌研究文献目録』*4

昭和一六年(一九四一)一八歳

 三月、旧制弘前高等学校を受験するが不合格であった。

 四月、大阪市天王寺区上本町八丁目の大阪外国語学校蒙古語部(現・大阪外国語大学モンゴル語学科)に入学する。他の者が特務機関や満鉄(南満州鉄道)などを志望していたのに対して、新聞記者を志望していたという。

 

司馬遼太郎事典』*5

昭和十六年(一九四一)十六歳

中学を五年で修了し、青森県弘前市まで旧制弘前高等学校受験に二十時間かけて行く。数学が最低点でもパス出来ると厳密に計算し、旧制弘前高等学校を受験するが失敗する。

昭和十七年(一九四二)十九歳

四月に大阪市天王寺区上本町八丁目の大阪外国語専門学校(現・大阪外国語大学)蒙古語部に進学する。東洋史言語学者の石浜純太郎の名を講師陣に見付け蒙古語部を選んだが、入学すると講師にその名はなかった。

 

 よく見ると『司馬遼太郎事典』のほうは年齢が間違っている。こういうことがあるから校正ってこわい。司馬の性格がよくわかる前後の記述もおもしろい。

 やはり近年書かれた年表でも1941年説と1942年説は混在しているようだ。

 

本人の認識は1941年?

 続いて、全集に収録された「年譜」を調べようとした。生前に出版された年譜は司馬の自筆に近く、研究者もまずはその記述を参照するだろうと思ったからだ。ところが、ちょうど国会図書館内のデジタル化作業中で閲覧不可能だった。

 そこで代わりに『新潮日本文学』シリーズの司馬遼太郎集内の「年譜」を参照した。こちらの年譜も司馬の談話をもとに編集されたもので、本人のチェックが入っているものと思われる。

 

司馬遼太郎集 新潮日本文学 60』*6

昭和十六年(一九四一・十八歳) 四月、大阪外国語学校・蒙古語科に入学。同期の支那語科に前衛俳句の赤尾兜子、一年上級の印度語科に陳舜臣、二年上級の英語科に庄野潤三氏等がいた。

 

 一応この記述が司馬の校正を経ていると仮定すると、本人の認識は1941年入学だったことになる。では欧文社の合格名簿が誤っていたということだろうか? いや、本人の記憶違いということだってありえるだろう。なにせ、講師の名前を勘違いして入学してしまう人だし……あるいは、福田定一という名前の学生が同時に二人存在した……? なんだか風太郎お得意の伝奇ミステリじみてきた。

 と、もやもやを抱えたまま館内のカフェで名物?のオムカレーを食べながら、友人にこの消化不良感をぶつけてみたところ、思いがけない答えが返ってきた。

「そういう問題は、学校の入学者名簿でもあれば一発なんだけどなあ」

 なにを隠そう、彼は現役の図書館司書で、それだけにこの手の「レファレンス」調査はお手の物なのだ。

 

大阪外国語学校一覧 自昭和17年昭和18年

 早速、大阪外国語学校側の資料をNDL(国立国会図書館オンライン)で調べてみる。「大阪外国語学校」で検索すると……

大阪外国語学校一覧

「大阪外国語学校一覧 自昭和17年昭和18年

https://dl.ndl.go.jp/pid/1276901/1/39

 という資料が出てきた。これは学則や服務規程、学内の地図などの現代の高校なら生徒手帳に記載されるような情報がまとめられたものだ。

 その中の生徒名簿「蒙古語部 第一學年」のページ*7を開くと、確かに「福田定一」の名前がある!(そして当然「第二學年」の中にその名はなかった)

4段目に福田定一の名前を確認できる

 こうしてようやく、福田定一司馬遼太郎が大阪外国語学校に入学した年は1942年であることが明らかになった。

 やはり司馬は1941年に中学校を卒業したのち、1年間の浪人を経験していたのだ。司馬の受験生活は1940年*8〜1942年3月までということになる。

 そして、この間の1940年〜1941年こそ、山田風太郎の学生小説が『受験旬報』に頻繁に掲載されていた時期にあたる。私が当初調べようとしていた、「司馬遼太郎山田風太郎の初期小説を読んでいた」説にも少し説得力が増したように思われて、よかったよかった。

 というか、この「大阪外国語学校一覧 自昭和17年昭和18年」、NDL上で普通に無料で閲覧できる。わざわざ国会図書館まで足を運ぶ必要はなかった……ってコト!?

 

なぜ2つの説が広まったか

 1941年説がなぜ広まったかについては推測の域を出ないが、司馬遼太郎本人が全集や選集に寄せた「年譜」、あるいは他のエッセイの中で1941年入学としたものがいろいろな媒体で参照され、孫引きされてきたのだろう。

 未見の文藝春秋刊『司馬遼太郎全集』の「年譜」も1941年入学となっていたのではないかというのが私の予想だが、お手持ちの方どなたか調べてください。私もデジタル化が完了して、司馬遼太郎著作権が切れたら(44年後)また見てみようかな……

 冒頭にも書いたが、司馬遼太郎くらい有名な作家に関する単純な事実ですら、裏を取るのは大変なんだなあ、と思わされたここ数日間だった。

 

 

 

 

*1:本名の山田誠也名義では1937年から母校・豊岡中学の機関誌『達徳』にいくつかの小説を発表していた。また山田風太郎ペンネームが初めて使われたのは、『映画朝日』に投稿して採用された「中学生と映画」というエッセイだったので、山田風太郎名義の小説としては最初の作品ということになる。

*2:福間良明司馬遼太郎の時代』中公新書、2022年、p27〜28。

*3:荒武賢一朗・宮嶋純子編著『近代世界の「言説」と「意象」:越境的文化交渉学の視点から』(関西大学文化交渉学教育研究拠点、2012年)所収。

*4:松本勝久著、文献目録・諸資料等研究会編『司馬遼太郎書誌研究文献目録』勉誠出版、2004年、p318。

*5:志村有弘編『司馬遼太郎事典』勉誠出版、2007年、p370。

*6:司馬遼太郎司馬遼太郎集 新潮日本文学 60』新潮社、1970年、p765。

*7:大阪外国語学校編『大阪外国語学校一覧』自昭和17年至昭和18年,大阪外国語学校,昭和15-18. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1276901 (参照 2023-01-29)。

*8:当時は中学4年時から上級学校への受験が可能。司馬遼太郎は旧制大阪高等学校を受験して不合格に終わっている。

正月バフの菊菜、エピグラフの楽しみ方、ノーサンガー・アビー

 あけましておめでとうございます。

 年末年始は大晦日と元旦だけ実家に帰り、あとは自宅でいつも通りに過した。

 ので、すでに特別感のない普段の連休明けと同じ感覚になっているのはいいことなのか、悪いことなのか。

 帰省するとき家族に春菊を買ってくるよう頼まれてスーパーに寄ったら「菊菜(京都の春菊) 490円」しか残っていなかった。春菊1束で約500円。あらゆるものが正月バフで値上がりしている。菊菜(京都の春菊)は大阪に住んでいたときもよく食べていて、春菊(東京の菊菜)よりも根付きで葉っぱの量が多い気がして好きだった。すき焼きにして食べました。

 

 ジェイン・オースティンの『ノーサンガー・アビー』を読んだ。

 ゴシック小説好きの少女をヒロインにした、19世紀イギリスのラブコメ小説。主人公キャサリンのセリフがカー『歴史とは何か』のエピグラフ*1に使われていたことから知ったのだけど、長い物語の中でほかにも力強い警句や励ましがたびたび出てきて面白かった。作者が地の文にどんどん顔を出してきて、そんな言い切る?って断言してくるので笑ってしまう。

 

 本についてるエピグラフ的なものやそれを面白がること、昔は気取りやがってムカつくぜと思っていたけど、今は一周回っておしゃれだ!と受け取れるようになった気がする。でもそれは「いやー、やっぱりこのクサさがたまらないですよね……」という”あえて”の楽しみ方をしているだけであって、素直に楽しむことはもうできなくなってしまったかも……。

 中二病と揶揄されるものを嫌悪した時期を経て大人になった人が、あえてそのクサさを楽しむような姿勢をとってしまうのと同じです。なぜ私の中でエピグラフ中二病のイメージになっているのかというと、多分BLEACHのせい。

『ノーサンガー・アビー』のキャサリンも小説のヒロインになるための修行に励んだり、妄想と現実を取り違えたりして失敗するが、その純粋さがまぶしくて読んでいるこちらが照れてしまうようないい主人公で、いい小説だった。

 

 

 

 

*1:不思議だなって思うことがよくあるのですが、歴史の本ってほとんど作りごとでしょうに、どうしてこんなにもつまらないのでしょう。(近藤和彦訳『歴史とは何か 新版』より。中野康司訳『ノーサンガー・アビー』では「でも、よく不思議に思うの。歴史書の大部分は作り話なのに、なぜこんなに退屈なんだろうって」。清水幾太郎訳『歴史とは何か』では「八分通りは作りごとなのでございましょうに、それがどうしてこうも退屈なのか、私は不思議に思うことがよくございます。」)