陸秋槎の小説『雪が白いとき、かつそのときに限り』を読み返していたら、序章の中に北と南の雪の違いについての一節を見つけた。
南の土地の雪というのはあまり見栄えのしないもので、縮こまり氷の粒になってしまうか、もしくはべちゃりと広がった姿で一団一団がせっかちに落ちてくるかで、文人が描くような軽さ、風流さとはほど遠かった。*1
これを読んで、魯迅の『酒楼にて』でも、同じように北方と南方の雪の違いについて触れられていたことを思い出した。
──ここの潤いのある積もる雪は、物に着いたら離れずに、透明でキラキラ光り、北の雪のように乾いて、大風がひとたび吹くや、空一面に霧のように舞い上がったりはしない……*2
『酒楼にて』の舞台は語り手「私」の故郷からほど近いS市、おそらくは作者の故郷紹興だ。「私」≒魯迅とするなら、北から旅をしてきたという「私」が慣れ親しんだ北方は魯迅が当時住んでいた北京のあたりだろうか。『雪が白いとき、かつそのときに限り』の舞台Z市がどこかは明らかになっていないが、長江以南の地方都市だ。
北京(北緯40度)と紹興(北緯30度)の緯度を日本に置き直してみると、だいたい秋田県八郎潟と鹿児島県口之島のあたり。
日本の小説ではあまり南北の雪質の違いに注目することがない気がするので、中国ならではの描写に感じて面白かった。
『雪が白いとき、かつそのときに限り』と『酒楼にて』はどちらも「物に着いたら離れずに」「べちゃりと」まとわりつくような青春の挫折をセンチメンタルかつ退廃的に描くという意味でも共通している。
なにせ、何年ぶりかに立ち寄った故郷のかつて通った居酒屋で旧友と再会し、「だめになった」近況を語り合う『酒楼にて』のストーリーを森田童子の「ぼくたちの失敗」になぞらえて論じる論文がある*3くらいだ。
そういえば『雪が白いとき、かつそのときに限り』のライブシーンでも「ぼくたちの失敗」が演奏されていた。
どいつもこいつも「だめになったぼく」に酔っぱらうのが好きすぎる。