とろろ豆腐百珍

読んだ本の感想などを書きます

陸秋槎『雪が白いとき、かつそのときに限り』

 短い文章はなるべくnote(陸秋槎『雪が白いとき、かつそのときに限り』|宇多川八寸|note)に書くようにしてるのですが、読書感想文が思ったより長くなったのでこちらにも載せます。

 

 前作『元年春之祭』で、前漢時代を舞台にした美少女百合ミステリという離れ業で読者の(私の)度肝を抜いた作者の翻訳長編2作目『雪が白いとき、かつそのときに限り』を読んだ。

 前作から打って変わって『雪が白いとき〜』は現代中国の高校を舞台にした学園ミステリで、タイトルと、そして帯で強調されるとおりの「雪密室」ものになっている。

 

 ある冬の朝、学生寮でひとりの女子生徒が死体で発見される。降り積もった雪の上には犯行を示すはずの足跡がなく、現場は密室状態になっていた。5年後、寮委員の友人顧千千(こ・せんせん)から事件のことを知らされた生徒会長の馮露葵(ふう・ろき)は、当時を知る図書室司書の姚漱寒(よう・そうかん)とともに5年前の事件について捜査をはじめる。しかし、関係者の証言が出揃ったところで第2の殺人事件が発生する。その現場は5年前の事件を再現したかのような「雪密室」になっていた……。

 

『雪が白いとき、かつそのときに限り』というタイトルは、エピグラフに掲げられた論理学者・数学者のアルフレッド・タルスキの定理からの引用だ。

 

  具体的な例から始めよう。「雪は白い」という文を考えよう。この文が真であったり偽であったりするのは、どのような条件のもとであるか、という問いを立てる。真理に対する古典的な観点を基礎におくならば、雪が白いときにこの文は真であり、雪が白くないときに偽である、と答えるのは明瞭であると思われる。つまり、真理の定義がわれわれのこの観点に一致するためには、それは次の同値式を含意しなければならない。文「雪は白い」が真であるのは、雪は白いときまたそのときに限る。(アルフレッド・タルスキ「真理の意味論的観点と意味論の基礎」、飯田隆訳)(P7)

 

推理小説として

 現場に残された証拠と関係者の証言を集め、二人の探偵役が推理合戦を交わしながら真相に迫っていくオーソドックスな構成の長編。

 

 探偵役の1人姚漱寒は推理小説マニアで、過去の名作について触れたり、現実とフィクションの捜査の違いを度々口にしたりする。こうした自己言及にも、作者が公言する日本の「新本格」の影響があるのかもしれない。あまり推理小説を読まない私にも、推理小説というジャンルにとても自覚的な作品だとは感じた。かといって現代社会とリンクした面がないかというとそうではなく、後述するように推理と並んで『雪が白いとき~』のもう一つの柱である青春群像劇の側面は、(中国に限らない)若い世代の生きる閉塞感を伝えている。

 建物の描写がやたら細かいのも新本格あるあるなのだろうか。○○館の殺人とかあるし。

才能をめぐる物語

 さて陸秋槎といえば百合の者としても知られ、前作に続いて『雪が白いとき~』でも少女同士の重い感情の抱き合い(いだきあい)が描かれているが、『雪が白いとき~』では「才能」をめぐる物語として百合が発動する。

 

 事件の調査を進めるうちに明らかになってくるのが、関係者のほとんどが何らかの才能の持ち主で、それ故に挫折を抱えて生きているということだ。既に高校を離れた5年前の事件の当事者たちは、高校生の馮露葵に、自分には才能がないと気付いてしまったものの諦めの苦さを語り聞かせる。学生はみな自分の持つ才能の可能性に葛藤してもがき、年長者はみな才能に見捨てられた挫折の生を生きている。『雪が白いとき~』の高校生はまるで才能の有無が青春そのものかのように感じられる切迫した生活を送っている。

 

 「重いのは音楽じゃなく」馮露葵が言う。「恋ですよ」
「いいや」晏茂林は首を振った。「それぐらいの歳であこがれて、褒めたたえて、信奉するようなものは、きらきら輝いて見える言葉は、ぜんぶ重すぎるんだ。音楽も、文学も、美術も、哲学も、夢も、恋も、ぜんぶ重すぎる。人はもろいもので、そんなものに押しつぶされてしまうから」
「才能」馮露葵はその輝かしい一覧に、なによりもきらびやかな言葉をつけくわえた。(P249)

 

  こうした状況を作り上げている一因に、「特長生」という制度の存在がある。日本の私立高校の特待生制度のようなもので、スポーツや芸術の優れた素質を認められた生徒に入試の優遇措置を与える制度だ。高校生のうちにスポーツや芸術で成果をあげた者には、大学入試の推薦が与えられる。そして、ドロップアウトしたものは二度と這い上がることはできない。高校を中退した後、コンビニで生気を失ったように働きつづけている5年前の寮生、陸英(りく・えい)の姿が象徴的だ。生徒たちにとって自らの才能の有無は文字通り死活問題なのだ。

 

 

 この「喪」の文化から生まれる百合とは何か。話は物語が始まる1年前に遡る。

 

 スポーツ特長生として入学したもののコーチと対立して陸上部を辞めた顧千千は、周囲から孤立していた。授業にも付いて行けず退学寸前まで追い込まれた彼女を救ったのが馮露葵だった。馮露葵は顧千千に勉強を教え、生徒会にも引き入れて学校で生きていくための居場所を作ってくれた。顧千千は恩人である馮露葵に友情と憧れを抱くようになるが、自分には何の才能もないことを誰よりも確信している馮露葵は、才能があったはずの顧千千をどこにでもいる普通の生徒にしてしまったことに後ろめたさと劣等感を抱えていた。事件に巻き込まれ、青春のもたらす痛みを知った二人がたどり着いた答えとは……? この先は君自身の目で確かめてくれ!

 

 私が一番ゾクゾクしたのは中盤で馮露葵が心情を吐露する場面です。憧れる者と憧れられる者が入れ替わる瞬間。憧憬の相転移。こんなのもう『ノワール』第25話「業火の淵」じゃん。作者が百合に目覚めたきっかけが『ノワール』だったというが、私が『ノワール』で一番好きな構図を陸秋槎は自作に完璧に取り入れてくれていた。

 

yudoufu.hatenablog.com

  クロエという名の愛。

 

引用のチョイスが最高

 インタビューで度々語っているように、引用の多さも作者の特徴の一つだ。

 

 前作『元年春之祭』では『楚辞』の解釈をめぐる議論が物語全体のキーになっていて、前漢時代でしか成立し得ない動機を生んでいた。引用がただの引用にとどまらず物語全体を支配し、舞台設定の必然さえ生んでいることにめちゃ感心したのだが、『雪が白いとき〜』でも冒頭のタルスキのエピグラフをはじめ様々なレベルでの引用が行われている。

 

 例えば、本に囲まれて暮らしながらもその本すべてを読み尽くすことは決してない図書室司書の無力感を推測するのにコールリッジの『老水夫行』を引く場面や、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』を手に取って、学生の頃のように文章を味わう余裕がなくなり貧しく軽薄な日々に追われるようになってしまった自分に気付く場面が印象的。

 

 さらに、同棲していた彼女を失い音楽の道を断念することを決心した男が最後のライブで歌う曲で、X JAPANの「Say Anything」、森高千里の「渡良瀬橋」、安全地帯の「碧い瞳のエリス」、森田童子の「ぼくたちの失敗」等を選曲するところも最高。文学作品やオタク文化だけでなく、ポップカルチャーのチョイスにもいちいち同意してしまう。作者は俺の実家のメタルラック漁ったん?

 

 そして『雪が白いとき、かつそのときに限り』というタイトルである。端的に「雪密室」を示すと同時に、二つの事件が世間智に汚れる前の純白の少女たちに限って起こる物語であることをも象徴する一節。いったい世界の不公平に絶望して死を選ぼうとしない17歳などいるだろうか。

 

 殺人事件も、才能をめぐる死に至る葛藤も、汚れなき白の世界でしか起こり得ない。最後のシーンで降り始める雪はその真理を証明している。

 

雪が白いとき、かつそのときに限り (ハヤカワ・ミステリ)

雪が白いとき、かつそのときに限り (ハヤカワ・ミステリ)