とろろ豆腐百珍

読んだ本の感想などを書きます

偶然に意味を見出そうとしてしまう話(ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』)

 ガルシア=マルケスの『予告された殺人の記録』は片田舎の町で起きたある奇妙な殺人事件に関する証言を集めた物語です。

 

 事件の被害者となったサンティアゴ・ナサールが殺されることはあらかじめ犯人によって予告されており、サンティアゴと一部の人たちを除く町の人々の大半もその予告を耳にしていました。そして当の殺人犯たちも、あえて殺しを予告することで周囲の人々にその凶行を止めてもらいたがっていた節があります。ところが、町の人々ひとりひとりの無関心や偏見にいくつもの偶然が重なって、予告された殺人は実行に移されサンティアゴ・ナサールは犠牲になってしまいます。

 

 果たして、サンティアゴ・ナサールが殺されてしまったのは避けようのない偶然、あるいは宿命の結果だったのでしょうか。それとも、彼には何か殺されねばならない必然があったのでしょうか。

 

 町の人々はみな何年間も、止められなかった殺人の意味を求め続けています。

 

 何年もの間、わたしたちの話すことはほかにはなかった。連綿と続いてきた数多くの習慣にそのときまで従っていた我々の日々の行ないは、突如として、共通の不安を中心に回り始めた。夜明けに鶏がときの声を上げるが早いか、わたしたちは、あの不合理な事件を可能にした、互いにつながり合った無数の偶然に、秩序を与えようと努めた。言うまでもないが、わたしたちがそうしたのは、いくつものミステリーを明らかにしたかったからではない。そうではなく、宿命が彼に名指しで与えた場所と任務がなんだったのか、それがきちんと分からぬまま暮していくことは、わたしたちにとって不可能だったからである。
(ガルシア=マルケス予告された殺人の記録』p114)

 

 語り手の「わたし」は、自身もサンティアゴの友人として事件の朝に居合わせ、三十年をかけて事件に関する証言を集めていますが、「つながり合った無数の偶然」に秩序を与えるには至りません。むしろ三十年という時間を経て、証言者の心中で事件の意味は熟成され、ひとりひとりが違う真実を信じているようでもあります。

 

 つながりあった偶然の結果を前にしたとき、人はどうしてもそこに何らかの意味を見出そうとしてしまうのではないかと思います。そのような何の意味もない偶然のつながりによって、今ある自分が存在しているという事実を受け入れるのはとても難しいことだからです。

 

 ここで銀英伝を引用しますが、急に銀英伝が出てくるのは私が好きだからです。どこからでも銀英伝の話につなげられるぞ。

 

「運命というならまだしもだが、宿命というのは、じつにいやな言葉だね。二重の意味で人間を侮辱している。ひとつには、状況を分析する思考を停止させ、もうひとつには、人間の自由意志を価値の低いものとみなしてしまう。宿命の対決なんてないんだよ、ユリアン、どんな状況のなかにあってもけっきょくは当人が選択したことだ」(田中芳樹銀河英雄伝説』8巻、p48)

 

 今から千年以上未来の話、賢明なヤン・ウェンリーは養子のユリアン・ミンツに語りました。しかし読者は宿命を否定するヤン自身が、選択できない偶然の連続に翻弄されてきた人であることを知っています。歴史家志望の青年だったヤンは保護者の父親を不慮の事故で喪い、無料で歴史を学べる唯一の学校である士官学校への入学を余儀なくされます。その士官学校でも所属していた戦史科が廃止されたことからエリートが集まる戦略科へ編入され、最初の任地で上官が敵前逃亡し不幸にもヤン自身が功績を上げてしまったために英雄にまつり上げられ、不本意な軍人生活を生涯強いられていくことになります。ヤンは偶然によって人生を大きく左右されてきた人なのです。それでいて、宿命を否定し、自分のおかれた状況は選択と自由意志の結果だと語る。ヤンと同じように、サンティアゴの死に居合わせた町の人々も、偶然は何らかの選択の結果だと読みかえなければ、不安から解き放たれない状況になっているように思えます。

 

 一方で『予告された殺人の記録』を読む私自身も、この小説で語られる偶然のつながりには何か意味があるはずだと推理しながら読んでいました。終盤、事件の捜査を担当した検察官による「彼が絶えず不当と感じていたのは、文学には禁じられている偶然が、人々の間でいくつも重なることによって、あれほど十分に予告された殺人が、行われてしまったことだった」(P117)というぼやきは、まるで解釈をしたがる読者を挑発しているようです。

 

 文学、ことにミステリーでは偶然が強く禁じられていることが多いように感じます。合理的に実行された犯罪と合理的に解明された推理の、そのロジックを楽しむジャンルという面です。もちろん例外は無数にありますが、それは禁則が強いからこそ、踏み越えたときの効果を狙った作品が多く生まれるということでもあると思います。

 

 アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』の犯人の動機は「法では裁けない殺人を断罪する」ことでした。予告された殺人を止められなかった/止めなかった町の人々は、果たして罪を犯したといえるのでしょうか? 少なくとも例の犯人なら町全体に有罪判決を下しそうです。この町の住人が童歌に沿ってひとりひとり消されていくデスゲームもそれはそれで読んでみたい。

 

予告された殺人の記録』は文字通り記録であって、そこで起こる事件の意味について答えを示すことはありません。記録の解釈は町に残された人々、そして読者に委ねられています。

 

 今週末に友達とこの本の読書会をするので、一体どんな解釈を聞けるのか今から楽しみです。童歌を歌いだされたらどうしよう。