とろろ豆腐百珍

読んだ本の感想などを書きます

男の絆の比較文化史、妖異金瓶梅

 佐伯順子『男の絆の比較文化史』を読んだ。男色、衆道、同性愛、少年愛、あるいは友情といった言葉で表現される男性同士の親密な関係性=〈男の絆〉がどう描かれてきたか、中世の稚児物語から現代の漫画までを通して概観できる本。夏目漱石の『坊っちゃん』や三島由紀夫の『禁色』、トーマス・マンヴェニスに死す』など有名な作品を入り口に、この分野の歴史をコンパクトに知れてよかった。 

 

 

〈男の絆〉の歴史というと、ともすれば「日本は古来から男色や衆道の伝統がある同性愛に寛容な国だった」といった日本スゴい論や「日本独自の美意識」といったテーマに回収されがちだが、この本は分析の対象を時代的・地域的に広く取ることで〈男の絆〉を相対化している。

 ドイツやフランスの文学・映像作品、あるいは他の地域の社会制度や人々の心性にも日本の〈男の絆〉と同質のものがあると示すことで、決して日本特有の文化ではないことが指摘されている。

 さらに「衆道」や「男色」の時代から近代にいたるまで、〈男の絆〉の文化が常に女性への蔑視や社会的弱者からの搾取の上に成り立ってきたものであることも明示される。

 日本には昔から「衆道」や「男色」があったというとき、じゃあその「衆道」や「男色」の内実になんら問題がなかったのかというと、そんなわけないじゃんという話であり、このあたりはぜひ本編を読んでもらいたい。

 

 この本の中で印象的だったのが、「視る快楽」(visual pleasure)の暴力性についての議論だ。もとはフェミニズム映画批評の用語である「視る快楽」とは、「美しい」といった価値判断を伴う視線の主体(男性)と、視られる客体(女性)の構図に、能動/受動という二項対立に由来する権力の上下関係が現れるという議論だ。

 日本中世の稚児物語や『ヴェニスに死す』、『禁色』などの〈男の絆〉の世界では、美しい少年を眺める年長者というかたちで、「視る快楽」が常に年上の権力者に独占されている。

 初老の大作家・アッシェンバッハが美貌の少年・タッジオをストーカーさながらにひたすらのぞき視る『ヴェニスに死す』は、権力を持った年長男性の一方的な「窃視の欲望」を描いた物語なのだ。

 

 ところでこの議論を読みながら、男性=権力者のものだった「視る快楽」「窃視の欲望」を女性が奪い返す物語として思い浮かんだのが、山田風太郎『妖異金瓶梅』だった。

 

 

『妖異金瓶梅』の中の一編「妖瞳記」に登場する劉麗華こそ、「窃視の欲望」に囚われた女性である。

 没落した富豪の夫人だった彼女は、家財とともに豪商・西門慶に買われ、第六夫人として囲われることになる。淫らな西門家の家風になじまない気品と神聖美に澄んだ瞳から、神女とも泥中の白蓮とも讃えられる彼女だが、それだけに色気を重んじる西門慶の寵は薄かった。ある夜、部屋の壁に空いた小さな穴から西門慶と第五夫人・潘金蓮の秘戯を盗み見たことから、彼女は「のぞきの快楽」に夢中になっていく。

 

 あさましいとも思う。恐ろしいとも思う。けれど麗華はいまやどうしても夜な夜なこの凄愴の鬼気をすらおびた色地獄を盗み見にこずにはいられなかった。この神女の瞳にも似た美しい眼は、のぞきの快楽のためにこそ生きていたのだ。

 

 ここに表れているのは、金で買われる社会的弱者であり、〈聖なるもの〉としてセクシュアリティを奪われた女性*1の側にも、欲望が存在するという事実である。

 彼女の視線は常に、夫である西門慶ではなく潘金蓮に向けられている。

 

(……)彼女は潘金蓮の痴態をみた。(……)

 のけぞりかえって笑う金蓮を。──身をよじらせてもだえぬく金蓮を、──馬のように四つン這いになった裸の金蓮を。──また逆に西門慶を馬にしてのりまわす金蓮を、──或いは西門慶の背なかに両手と両足をからませてしがみついたまま、西門慶を歩かせたり、踊らせたりする金蓮を。

 夜の潘金蓮は、ひるま女同士のつきあいでみる金蓮とはまったく別の女であった。西門慶にからみついた白い手足は、奇怪に四本とみえず、無数の蛇のもつれとみえた。さしもの西門慶が全身の体液をしぼりつくしてからからになったようなのに、なお執拗に金蓮の唇と舌が這いまわって彼をのたうちまわらせた。

 

『妖異金瓶梅』は西門慶の寵をめぐって争う夫人たち、という体裁をとりながら、実は「稀代の淫婦」潘金蓮の欲望を讃える物語である。それは原作『金瓶梅』の主人公である西門慶ではなく、その幇間(たいこもち)であり密かに潘金蓮を崇拝する応伯爵が探偵役を務めていることからも明らかだ。そして、金蓮の小間使いで「同性愛」の相手でもあった龐春梅が「女は──いいえ、人間は、だれでもおなじだということを知ってもらいためなの。(……)もし金蓮さまが淫らな女だったとしたら、女はみんな淫らです」と口にしたように、潘金蓮の欲望は決して「淫らな」彼女だけのものではない。

金瓶梅』というある種のハーレム小説を原案にしながら、視られるだけの存在ではない、主体的な欲望をもった女性を描いたところにも、『妖異金瓶梅』の魅力があると改めて気付かされた。

〈男の絆〉との関連でいえば、第二話「美女と美童」の中で西門慶と応伯爵が交わす「美女と美童の味くらべ論議」は、男色と女色の優劣問答が繰り広げられる江戸時代の『田夫物語』のパロディかもしれない。

*1:『男の絆の比較文化史』では、父権的な性道徳による女性の性への抑圧という側面を内包する聖母マリア信仰を例に引きつつ、”崇拝されつつも性的主体性を奪われた客体”として稚児と女性のジェンダーを論じている。