とろろ豆腐百珍

読んだ本の感想などを書きます

『即興詩人』森鷗外の恋愛シミュレーションゲーム的可能性

 アンデルセンの長編小説『即興詩人』を読んだ。

 日本では『舞姫』『うたかたの記』『文づかい』と同じような、森鷗外の擬古文による翻訳が有名な作品。私はもともと鷗外が擬古文で書いた三部作が好きで(それこそ昔下手なパロディを試みたことがあるくらい好き)

もしも森鴎外が「魔法少女まどか☆マギカ」を観てから「舞姫」を書いたら

 

『即興詩人』も読みたくて探していたけれどなかなか書店で見つけることができなかった。それが2022年の鷗外没後百年を記念して岩波文庫から復刊されたので、ようやく読むことができたのです。

 晩年の水墨画のような簡潔第一の作品とは180℃異なる『舞姫』や『うたかたの記』のロマンチックさが好きなので、『即興詩人』はその濃い原液を飲んでいるようで読んでいてとても楽しかった。鷗外晩年の史伝ものに「年とるとみなああなる」と否定的だった山田風太郎もこれなら大満足だろう。やっぱこれよな、風さん。

 

 ところが、読み終わって他の人の感想を漁ってみると、鷗外による華麗な翻訳・文体は評価が高い一方で物語の内容自体を評価する声は意外なほど少ない。文庫解説(川口朗)も、訳文については

鷗外の自由自在な訳法と、苦心の華麗な文章が、原作の情熱的な詩情を、ほどほどのおだやかさにやわらげ、優雅なものに洗いあげたのである。

 と称賛するのに対して内容には辛口だ。

結局のところ、イタリアを舞台にした美男と美女の悲恋の物語、しかもハピーエンドの甘いメロドラマ、センチメンタルな大衆小説、そういう二、三流の作品の域を出ないであろう。

 解説はその理由として登場人物に「個性的な厚み、複雑さがない」をまず指摘しているが、これについては「ちがうだろ!!!」と声を大にして言いたい。

 

『即興詩人』は若く才能ある詩人のアントニオがローマ、ナポリヴェネチアを中心にイタリア各地の名所や遺跡を巡り、その土地で起きたイベントをこなしては次の土地へと去っていくRPG的物語だ。

 物語には四人のヒロインが登場する。アントニオは滞在した都市でそれぞれのヒロインと知り合い、なんだかんだあっていい感じの仲になり、これは結ばれるか?というところで思いがけない事件が起きてヒロインと引き離される。この展開が『即興詩人』の基本パターンである。

 

 ローマで出会う絶世の歌姫にして初恋の人アヌンチヤタ

 ナポリで出会う恋に積極的な人妻サンタ

 二度目のローマで出会う幼馴染のシスターフラミニ

 ヴェネチアで出会う清楚可憐な令嬢マリア

 

 さあアントニオ君、君はこの四人のうち誰を選ぶのかね!?という物語なわけです。RPGじゃなくて恋愛シミュレーションゲームだったかもしれない。

 実際彼女たちはゲームや漫画だったら人気が出るような、ツボを抑えたキャラクター造形がされている。

 例えばアヌンチヤタならば、「姫が家にありてのさま」は「我儘にて興ある振舞、何事にも頓着せずして面白げなる擧動」をするように描かれる。舞台の上では喝采を浴びる女王が、家ではいたずら好きな一少女に戻るといったふうに。

 私が一番好きなのは、アントニオとアヌンチヤタがカーニバルの遊びでふざけて喧嘩したあと、花束を投げて仲直りする場面で、『文づかい』のラストを思わせる鷗外の文章と相まって本ッ当に美しい。

娘はアントニオ、餘りならずやと怨じたり。その聲は我骨を刺すが如く覺えぬ。そはアヌンチヤタが聲なればなり。娘は籠の内なる丸の有らん限を我頭に擲げ付け、續いて籠を擲げ付けしに、われ驚きて跳り下るれば、車ははや彼方へ進み、和睦のしるしなるべし、娘のうしろざまに投じたる花束一つ我掌に留まりぬ。

 彼女たちには「個性的な厚み、複雑さがない」かもしれないが、キャラは十分立っていて、それがこの小説の魅力の一つになっている。

 近代文学的な人間の内面を掘り下げる方法ではなく、表層的な振舞や属性でキャラクターの魅力を表現する方法は、『うたかたの記』のマリイや『文づかい』のイイダの描き方と共通しているように思われる。

 どちらの方法を用いても傑作を書くことができたのが森鷗外の凄みだが、日本の近代文学がある時期まで前者を「一流」、後者を「二、三流」とみてきた歪みが、文庫解説者の評価に現れているのではないだろうか。

 もし鷗外が『即興詩人』の方法で小説を書き続けていたら日本近代文学は「甘いメロドラマ」ばかりになっていたかもしれないし、恋愛シミュレーションゲーム史的発展を遂げていたかもしれない。想像してごらん、太宰治ラブプラスを書いている世界を……

 

 ところで恋愛シミュレーションゲームには通常ルートでは攻略できない隠しキャラがつきものなので、『即興詩人』にも五人目の隠しキャラがいるのではと疑っている。

 私が見たところ、アントニオの兄貴分で、プレイボーイの貴公子でありながらなぜかアントニオに劣等感を抱く親友のベルナルドオは完全に攻略対象です。序盤の「寄宿舎、親友、二人きり…何も起きないはずはなく…」な展開には本当にドキドキした。

 

 

www.aozora.gr.jp

 

 

『神クズ☆アイドル』感想 ファンとアイドルのエネルギー相互補完問題

 いそふらぼん肘樹『神クズ☆アイドル』の1〜6巻を読んだ。

 いや、め〜ちゃくちゃおもしろい!!!!

 

 

 作者の肘樹さんのことはWEBラジオ『人生思考囲い』にゲストで出演していたのをきっかけに知り、「オモシレー女…」(失礼)となってツイッターアカウントはフォローしていたのだが、読まなきゃ読まなきゃと思いつつ神クズには手を出せていなかった。

 

 この夏のTVアニメ化を機に5巻、6巻の特装版を含む既刊が書店に展開されているのを見てようやく購入し、先日一気に読み進めた。そこから放送終了したアニメ全話をdアニメで追いかけ視聴し、特典小冊子読みたさに2巻3巻4巻の電子特装版を購入し、ZINGSの楽曲をプレイリスト登録して四六時中流し……ともかく今になって完全にハマっている。

 

 神クズアイドルは、アイドルユニットZINGS所属の顔はいいがまったくやる気がないアイドル仁淀ユウヤと、死んでもアイドルやりたいめちゃくちゃやる気のあるアイドルの幽霊最上アサヒがバディを組んでトップアイドルを目指す話で、誰かを応援する/される存在としてのアイドルたちとオタクたちの生き様が描かれたとにかく熱い漫画である。

 

 誰かを応援するって、すごいエネルギーのいることだと思う。それが報われるものとは限らない、報われるかどうかは相手次第なものだけになおさらだ。

 私にはアイドルの推しはいないけれど、ひいきにしているサッカークラブがあって、毎日のように一喜一憂している。

 試合の結果ももちろんそうだけれど、有望選手が他チームに引き抜かれては叫び、長年苦労してきた選手が代表に選出されては喜ぶ。公式HPにアップされた監督の短いコメント一つから次の試合の戦術や起用方針について妄想している様は、仁淀がSNSを更新するたびに荒れるZINGSオタそのものだ。

 そしてサッカーの結果において、ファンの応援が結果に反映されることはまれだ。ほとんどないと言ってもいい。ファンの声援が選手の背中を後押しするというけれど、合理的に考えればチームがよい成績をおさめるために必要なのは、選手や監督のがんばりだ。がんばれゴエモン? お前に言われなくてもゴエモンはもうがんばってるよ……。

 正直その事実に打ちのめされそうになることもある。「なんで俺がこんなに応援しとるのに大学生に負けんねん!!(天皇杯二回戦敗退)」「こんなに苦しいのなら、シャーレなどいらぬ(サウザー)」と何度なったことでしょう。

 それでも多くのファンが現地で、自宅で、居酒屋で毎週末チームを応援するのは、”推し”チームがそれだけのエネルギーをファンに与えてくれているということだろう。そしてたとえ結果に反映されなくても、ファンの応援が選手があと一歩踏み出すためのエネルギーになっているのも事実(と思いたい)。

 神クズアイドルで描かれるアイドルとファンの関係も同じようなもので、ステージを介して巨大なエネルギーの相互補完が行われていて感動してしまう。

 

 どうしてファンの人たちは金にもならないのに自分のことを応援してくれるのだろうという仁淀の疑問に「愛です!」と答えるアサヒちゃんも、からっぽだった自分に元気をくれた最上アサヒのようなアイドルを目指し「ファンに喜んでもらえる姿」を見せようと努力し続ける瀬戸内くんも、アサヒのように「みんなのため」ではなく誰かのためにステージに立とうとするチカゲちゃんも、みんなみんなかっこいい(こうして見ると生前のアサヒちゃんの偉大さが際立ちますね)。

 6巻では、黒騎士アイドル・七瀬ヤクモとファンの黒いちごさんのエピソードがまず一番に心を打った。黒騎士の世界観を飛び越えて変わっていくヤクモの推しをやめるという黒いちごの決断が、前向きなものとして描かれていてとてもよかった。

 自分の好きなものが変わってしまったのを認めるなんて怖いことだし、しがみついてしまいたくなるものなのに、ドラマに出て変わったヤクモを見て「似合ってるよね あの服も……」と言える黒いちごさんは強い。

 変わっていく推しから離れて自分の世界を守る選択、誰かを失望させてでも新しい自分に変わる選択、どちらかが正しいのではなくどちらも尊重されるべきものだ。

 塩対応だった仁淀のもとにアサヒちゃんがやってきて突然神対応を始めたときに離れてしまった、おそらく存在しただろうZINGSオタの選択も決して間違いではないんだよな。

 肘樹さんはカバー裏漫画で「黒いちごさんは若干神クズらしからぬ結末となりましたが…」と書いているけど、アイドルとファンの関係にいろんな角度から光を当ててきた神クズらしいとても真摯な展開だと思った。

 


www.youtube.com

 

迷っていたいだけでした お別れ言わせて

毎度お馴染みの理由で また延長

臆病な私に必要だったのは

小さな勇気じゃなくて 本当の恐怖 ほら朝が来る

BUMP OF CHICKEN「morning grow」)

 

 5〜6巻のヤクモ編を読み返すたびにBUMP OF CHICKENの「morning grow」を思い出すのだけれど、そういえばこの曲のまさにこのフレーズを教えてくれたのも神クズアイドルと同じく『人生思考囲い』(第27回)だった。

 


www.youtube.com

 

 推しはいないと書いたけれど、私はじんしこ箱推し勢かもしれないな。

 ピエール手塚さんの単行本デビュー! 記念生配信! 阿佐ヶ谷ロフトでのリアルイベント! オリジナルグッズ発売! ……と、今週はじんしこイベントが盛りだくさんでうれしい。

 この日曜は憧れの人たちに会ってエネルギーをたくさんもらってこようと思います。

サラ・ピンスカー『いずれすべては海の中に』

 

全体の感想

 アメリカのSF作家サラ・ピンスカーの初短編集、フィリップ・K・ディック賞受賞作の『いずれすべては海の中に』を読んだ。
 一つ一つの作品単位でみても様々な賞を受賞したりノミネートされたりしており、評価の高い作品揃いだ。
 実際に、どの作品も粒揃いでおもしろい。おもしろいが、全編を読み終えたあとどこかに押し付けがましさ、もっと言えば説教くささのようなものを感じてしまった。
 この思いは、この本を読んだ人の多くが抱く感想とは矛盾するものかもしれない。現にこの本を私にすすめてくれた友人は、ピンスカーの「押し付けがましさがない」ことを評価していた。ピンスカーはともすればセンシティブに扱われる事柄も、「そうあるもの」として自然に書く。例えば多くの登場人物に同性のパートナーがいることをことさら強調しない。彼ら彼女らにとってはそうあるのが自然なのだから、その書き方は正しい。『いずれすべては海の中に』で描かれるのは、社会ではなく個人の物語だから。
 SF的な設定は物語のきっかけに過ぎず、その世界で生きる「わたしたち」──「人々」というよりももっと個人的な──の生活や葛藤を描き出すことに主眼がおかれている。例えばジェンダーや歴史の継承について、芸術と興行の関係について、登場人物たちは自分たちの生きる社会への明確な問題意識を持っているが、それが前面に出された中編よりも短編のほうが優れているように思った。それは彼女たちの主張に同意できないというわけではなく、個人的な事柄を語る「わたし」の話法で社会への問題意識が主張されるとき、小説を通して彼女たちにお説教をくらっているような気分に私がなってしまったからだろう。

「一筋に伸びる二車線のハイウェイ」

 義手を装着したことで右腕が「コロラド州東部にある、二車線で長さ九十七キロの一筋に伸びるアスファルト道」とつながってしまったアンディの話。突拍子もない奇想としてはこの話が一番おもしろかった。最初は困惑していたアンディは「道」を徐々に理解し、受け入れていき、最後には「道」のために涙を流す。

「そしてわれらは暗闇の中」

 何らかの事情で子供を持てない人たちの夢から姿を消した「ベビー」が現実に、南カリフォルニア沖の岩の上に現れる。夢を見ていた人々はみな自分の「ベビー」に惹きつけられて海岸に集まってくるが……。

「記憶が戻る日」

 ひどい戦争が終わった後の世界、退役軍人は記憶を消され一年に一度のパレードの日だけ記憶の「ベール」を上げて過去の記憶を取り戻すことができる。悲惨で残酷な記憶だからといって消してしまうことは、次の世代に何かを失わせてしまうのではないか。「風はさまよう」と共通する思いをより個人的なかたちで描いていて、こちらの方が好みだ。

「いずれすべては海の中に」

 何らかの事情で文明が崩壊した後の世界を舞台にしたロマンス。この短編に限らず、物語が始まった時点で何かが失われていたり、取り返しのつかないことが起きていることが多い。設定のすべては説明されず、一人称で語られた情報を拾い集めて何が起きたのかを想像していくのは楽しい作業だった。

「彼女の低いハム音」

 死んだおばあちゃんを模して作られた機械のおばあちゃんとの間に新しい愛が芽生えるまでの話。失った何かの代りとして作られたものが、新しい意味を獲得していくのは繰り返されるテーマだ。全編読んだ後に感じることだが、こうした短編のほうが話が締まっていておもしろい。

「死者との対話」

 AIを用いて殺人事件の犯人や被害者との対話を可能にした箱庭「殴打の館」を発明し、ビジネスに利用しようとする友人と主人公の仲違いを描く。ホラーになるかと思いきや、人間関係のドラマを貫き通す。主人公が言葉を濁す、彼女の弟が巻き込まれた事件について館が何と答えるかがサスペンス。そうした恐怖を期待してしまう読者へ冷水を浴びせたいという思いもあるのかな。

「時間流民のためのシュウェル・ホーム」

 時間飛躍が実現して、現在と過去と未来の空間がつながってしまった世界?この作品は一読だけではよくわからなかった。

「深淵をあとに歓喜して」

「ともに暮らす相手に真に寄り添うことの難しさ、それでも遅すぎることはないという小さな希望を描いた、本書の中でもとりわけ胸を打つ一篇」(訳者あとがき)。良質な物語だが、短編のような突飛さはない。アイデア勝負の短編とは異なり、ある程度の長さを持った中編になると奇想ではない形で語らなければならないのだろう。建築家の夫が救おうとした人々とは何なのかなど、ここでも明かされない情報がある。

「孤独な船乗りはだれ一人」

 セイレーン伝説をジェンダーアイデンティティを切り口に編み直した短編。視点の確かさと、物語を構成するうまさ。作者の高い技量が表された作品だ。

「風はさまよう」

 世代間宇宙船の中で繰り広げられる、歴史と音楽と記憶を受け継いでいくことの意義を問う物語。とにかく説教くささを感じてしまい全編の中で一番苦手な作品だった。一人称の長い物語は「わたし」に共感できるか、魅力を感じられないと没入することができない。

「オープン・ロードの聖母様」

 前作の読後感に引きずられて、これも若干お説教を感じてしまった。音楽や芸術はいかにあるべきかという問題意識が明確なだけに、反対の立場をそんなにくささなくてもと思ってしまう。この話では、主人公に否定される「ホロ・ライブ」の側の主張もある面では理解できるものとして描かれてはいるが。

「イッカク」

 クジラを運転してロードサイドを行くフリーターと婦人の奇妙な二人旅。主人公が身勝手なくせに他人に文句をつけるばかりに思えてイライラ。

「そして(Nマイナス1)人しかいなくなった」

 多元宇宙から集められたサラ・ピンスカーによる「サラコン」の会場で殺人が起きるという趣向のサスペンス。設定はふざけているが、中身は可能世界の自分をめぐって割としっかりした話が語られる。もっとふざけてもよかったのでは、という気がしないでもないが。あるいは、クリスティの『そして誰もいなくなった』に寄せるなら、自分と同じサラたちの誰もが殺人を犯し得る存在になった恐怖をもっと描いてもよかったのではという気がする。

刺青殺人事件、十三角関係

 高木彬光の『刺青殺人事件』と山田風太郎の『十三角関係』を読んだ。

 どちらも戦後に登場した新人推理作家がほぼ初めて書いた長編作品(刺青殺人事件は1948年の高木彬光のデビュー作、十三角関係は1956年の山田風太郎初単独長編)で、題材も似ているだけにそれぞれの特徴が感じられて面白かった。

 

 刺青殺人事件では、背中に美しい大蛇の刺青を彫った女が密室で殺され、頭と手足を残して胴体だけが事件現場から消失してしまう。刺青の美に魅せられた男たち・女たちの心理とともに、胴体消失トリックが大きな謎として描かれる。

 十三角関係は、美女の両手、両足、首がぶら下げられた風車がゆっくりと回る凄惨なシーンから物語が始まる。なぜ女王のように畏れられていた被害者がこれほど惨い殺され方をされなければならなかったかという動機が、事件の真相と結びついている。

 

 両方読みくらべると、やっぱ山田風太郎は圧倒的に文章が上手い。

 

 赤い風車はまわる。あれは一本の足ではないか。つぎの羽根の吊っているのも、人間の足ではないか。恐ろしい十字架はまわる。そのつぎは、腸詰みたいにたばねた二本の腕ではないか。そして最後に、真紅の毫光にもえたつようにみえるのは、美しい女の首ではなかったか?

 

 この見てきたような語りに、冒頭からぐぐっと引き込まれてしまう。しかもこれ、「真紅の毫光」は漢字なのに「もえたつ」はひらがなだったりして、後年の『甲賀忍法帖』の文章について冲方丁が評した「読み手に可能な限り労力をしいず、若年層にも入りやすく、わくわくする印象的フレーズに注目させる」技術がすでに使われている……!

 二重の密室状況が登場したり、大小の謎を一つずつ名探偵が鮮やかに解決していったりと本格推理小説としては刺青殺人事件のほうがちゃんとしているのだが、十三角関係の思わず引き込まれるような描写力はない。

 十三角関係の前に書かれた二人の合作長編『悪霊の群』では彬光がプロット、風太郎が文章を担当したようだが、お互いの長所がはっきりしていて面白い。

 風太郎が日記(『戦中派復興日記』昭和26年6月1日)に『刺青殺人事件』、江戸川乱歩『陰獣』、横溝正史『本陣殺人事件』の紋切り表現を羅列して当時の探偵小説の稚拙さを批判していたのも、それだけ同業者の中で自分の文章に自信があったということだろう。

 ところで、この二人はお互いの家をしょっちゅう行き来するほど仲がよかったようだ。昭和26年8月末には悪霊の群の相談もかねて、2泊3日の熱海旅行をしている。このとき彬光の従妹・幸子と三人で遊んでいるのだが、その半月後なんと彬光が幸子と不倫関係にあったことが発覚する。

 

 朝、高木夫妻来る。相手の女は幸子嬢なりと、ナーンダと思う。しかし、そのあとでナーンダと思われない話になった。彬光、女に刺青あるにあらざれば魅力感ぜず、よって幸子嬢、背中全面に刺青を入る。何たる馬鹿な女なりや。いじらしきこともいじらしけれど、彬光の病癖よりも、女どもに呆れかえりて二の句がつげず。

(戦中派復興日記、昭和26年9月17日)

 

 刺青殺人事件には何人もの自称「刺青マニア」が登場するが、まさか作者本人がマニアの筆頭だとは夢にも思わなかった。性癖で創作している作家は強い。

 

 

 

 

 

打撃マンという思想 あるいは、タイラー・ダーデンはいかに生きるべきか

 先日Kindleで購入した山本康人『打撃マン』を読んで、衝撃を受けた。一見するとストーリーはなんてことない、ムキムキの男(ときに女)がどうしようもない小悪党をパンチ一発で粉砕する、それだけの話に思える。しかし、読み終えたときに感じたのは爽快感よりもむしろ「打撃マン」という生き方がもつ悲しさだった。

 ど迫力の絵とともに示される「牙を失いたくない」「生理的に許せない人間がいる」といったセリフ、所構わず脱ぎたがる打撃マンたちの奇行にばかり目が行くが、それだけではない魅力が『打撃マン』にはある。

 作中で語られる通り「打撃マンは思想だ」とするならば、その内実こそが問題である。

 

 ブライダル企業に勤める伊達保は暴力を恐れるあまり肉体を鍛えることに執心する臆病な人間だった。クレーマーの顧客に殴られ初めて暴力にさらされたとき、彼の中で何かが目覚めた。怒りに身を任せて顧客を殴り倒して以来、彼は弱者をいたぶる理不尽な人間に「だしゃあ」の掛け声とともに拳で制裁を加える「打撃マン」に生まれ変わった。

 

『打撃マン』の物語はこのようにして幕を開ける。暴力による勧善懲悪、しかし『打撃マン』が描くのはそれだけではない。そこでは暴力を行使する者の葛藤もまた伊達のモノローグを通して描かれる。

 

 打撃マン伊達保は正義のヒーローではない。暴力と戦いながら、暴力をふるうことで自身が感じてしまう快感に戸惑い、嫌悪する人間だ。彼の「打撃」が社会的に許されているわけでもない。打撃マンとして拳をふるうほどに、彼の会社員としての地位は下がり地方の支店への左遷が繰り返される。そう、いくら『打撃マン』の世界とはいえ人を殴るのはいけないことなのだ。当たり前に。

 初めて拳を振るうとき、伊達は「闘うことを忘れたら男ではなくなる」と拳を噛みながらも「殴るのは弱い人間だ」と心のなかで繰り返す。「殴るのは弱い人間だ」。しかし伊達の拳がクレーマーの肉を打ったとき、「わたしの全身を貫いたのは不可思議な快感だった」。

 悪党を前にして、己の罪を「拳に聞け」と叫びながら「わたしは正義ではない」と自省してしまうのが伊達保という人間なのだ。『打撃マン』という作品は、ムキムキの人間が悪漢を殴り飛ばす爽快なストーリーとは裏腹に、「打撃」はそれ自体では決して救いになり得ないという極めて現実的な諦観に根ざしている。

 

 打撃マンに制裁される者たちは金や地位、あるいは腕力に物を言わせて他人の尊厳を踏みにじる悪党だ。彼らの一人は「人間には生まれながらに分相応の地位が与えられてんだぜっ つまり貴様はどこまでいってもチンカスでしかないんだよ!!」とうそぶく。悲しいことに『打撃マン』の世界でも、この言葉は一面の真実を捉えている。

 天才として生まれ父親に英才教育を施されたゴルフスターの彼は「スターの俺が暴力なんかふるうわけないだろ!!」と言ってのけた。スターとして生まれた人間は、暴力をふるう必要がない。「分相応の地位」を乗り越えるために暴力に頼らなければならないのは、弱い人間だ。殴るのは弱い人間だ……

「打撃マン」とは世の中の理不尽に抗うために、暴力という手段に頼らざるを得なかった弱い人々のことであるともいえる。

 人を殴るのはいけないことだ。暴力は社会的に許されていない。しかし彼らを暴力に走らせたのは、「分相応の地位」を振りかざす社会そのものだ。暴力をふるうことを正義と思い込んだなら、「打撃マン」も制裁されるべき悪党と同類になってしまう。なのに、暴力をふるうとき自分は快感を感じている……。

 打撃マンという思想は、一見単純明快なようでいて、救いにたどり着かない堂々巡りの深みに人を誘っている。

 

『打撃マン』と同じように肉体と暴力によって格差社会を乗り越えようとした集団が登場する作品といえば、チャック・パラニュークの『ファイト・クラブ』が思い浮かぶ。「ファイト・クラブ」に参加した人々は肉体をぶつけ合うことで、生の実感を取り戻していく。伊達保が「打撃マン」に目覚めたように、『ファイト・クラブ』では臆病で平凡なセールスマンだった主人公がマチズモの権化のようなタイラー・ダーデンと同化することで野性に目覚めていく。

 そして『ファイト・クラブ』の主人公もまた、暴力をふるう快感を嫌悪しつつその暴走を恐れていた。だからこそ、「ファイト・クラブ」が本当に社会を転覆させてしまいそうになったとき主人公は転向しなければならず、暴力のカリスマであるタイラー・ダーデンは死ななければならなかった。

 

『打撃マン』の葛藤や『ファイト・クラブ』の結末から、私が勝手に汲み取ったテーマはこういうものだ。

 暴力そのものは救いになり得ない。暴力に身をさらし、暴力の魅力から目をそらさずに、暴力をコントロールしなければならない。

 私にとって、このテーマを最も鮮烈に描いた作品といえば柴田ヨクサルの『エアマスター』である。

エアマスター』の主人公相川摩季も、暴力によって生の実感を取り戻した人間だ。中学生にして女王と呼ばれるまでの体操選手になった摩季は、体格に恵まれた格闘選手の父の遺伝というまさに「生まれながらの」要因で選手生命を絶たれる。空中殺法の使い手「エアマスター」としてストリートファイトに身を投じることで摩季は闘争心と日々の緊張感を取り戻すが、ファイトを重ねるにつれどんどん強く制御不能になる「私の中の化物”エアマスター”」に怯えるようになった。

「消えてしまえエアマスター」と臨んだラスボス渺茫戦で敗れた摩季をもう一度立たせたのは、誰よりも戦いを避けてきた男深道の「地球上でただ一個の我だ! ただ一個の”誇り”を持って生きろ!!!!」という言葉だった。 深道の言葉は摩季のエアマスターを否定しない。

「おまえの人生がもし最悪になったとしても おまえの場合は”エアマスターだ!”という”誇り”を持って…… 生きていけばいい 弱いおまえならなおさらだ」

 と語る深道が伝えようとしたのは、エアマスター=弱い自分であることを認めて愛せということではないのか。そしてその弱い人間の誇りとは、これまでの戦いでジョンス・リーや金ちゃんが見せてくれた「安いプライド」そのものではないか。

 つまり、伊達保は「打撃マンだ!」という誇りを持って生きていけばいいし、ファイト・クラブの主人公は「タイラー・ダーデンだ!」という誇りを持って生きていけばいい。

 先輩打撃マン陣内が伊達に示したように、己の誇るスタイルを確立すれば、それはいつか思想と呼べるほどのものになるのだから。

 彼らと同じく弱い人間である私も、弱さを誇りに変える何かを見つけて生きていければと願っている。

 

打撃マン1 (SMART COMICS)

打撃マン1 (SMART COMICS)

Amazon

 

 

 

 

レッツゴー怪奇組、リコリス・ピザ、堕落

 最近読んだり観たりしたものの感想です。

 

 オモコロで連載されているビューさんの『レッツゴー怪奇組』3巻を読んだ。ちょっと前に発売されてすぐに買ってしばらく積んであったのだけど、安定して面白い。古くなった洗濯機(の霊)の挙動に思い当たる節がありすぎて一番笑った。「また家電の話かよ」と言ってる通り家電と家具と食い物の霊の話が多い漫画だ。チャーハンの霊とか。それでいて怖いところはちゃんと怖いのが、怪奇組のすごいところだと思う。

『レッツゴー怪奇組』と森とんかつ『スイカ』で、去年から自分の中でホラーギャグ新時代が来てます。

 

 

 ポール・トーマス・アンダーソン監督『リコリス・ピザ』を観た。友人に勧められてとにかく公開しているうちにと思って映画館に駆け込んだのだけど、いまいち話についていけなかった。70年代のアメリカ、サンフェルナンド・バレーを舞台にした青春コメディ。解説サイトを見ていると、監督やその知人、役者とゆかりのある舞台や設定が多く用意された半ば自伝的な作品のようで、実際当時のアメリカを懐かしんだり茶化したりしている空気を観ていて感じた。とはいえ、こちらはアメリカ人ほどアメリカ文化に懐かしみを覚えちゃいないので、取り残された気分になってしまった。ところどころ挟まれるギャグも、「真面目にやってませんから」の体をとる福田雄一的な「茶化し」を感じて肌に合わず。

 

eiga.com

 

 あとは、高橋和巳の長編小説『堕落』を読んだ。満洲国建国の陰謀に加担した主人公・青木隆三が戦後は混血児養護施設の園長として求道者のような生活を送るが、その業績が表彰された瞬間から狂気に走っていくというストーリー。戦前戦中の満洲国、戦後の養護施設経営、オリンピック前夜の現在がフラッシュバックしながら重ねられていく。

 面白く読んだけれど、同じ作者の『邪宗門』のようなスペクタクルを期待していたので物足りなさも感じた。その違いは、『邪宗門』は世直しの夢にかけてテロリズムに走る新興宗教団体の破滅までを描いていて、『堕落』は満洲国の「五族協和」「王道楽土」の理想が崩壊したあとの罪をどう清算するかが描かれているからだろう。

水滸伝』でも『平家物語』でもなんでもそうだが、たとえ最後は滅ぼされるとしても野望を抱いたならず者が力を合わせて勢力をのばしていく様はワクワクするが、滅んだあとの後始末は盛り上がりに欠ける。『堕落』の主人公にならって『三国志』に例えると、諸葛亮が死んだあとの三国志を読みたい読者は限られるのと同じだ。

『堕落』で一番印象に残ったのは「理論を失った人間は逸話と暗喩に生きる。青木にとって、それは最後の自己満足の糧だった」という辛辣なフレーズでした。逸話と暗喩ばかりに生きててごめんなさい。

久生十蘭『墓地展望亭・ハムレット他六篇』

 久生十蘭の短編集『墓地展望亭・ハムレット他六篇』を読んだ。ここ最近ずっと読み進めている山田風太郎の日記の中で、『ハムレット』が褒められているのを見て「へ〜」と思って読んだのだけど、面白かった。風太郎は読んだ本の感想はあまり書かないし、褒めることは稀なのでたまに褒めている本は気になる(と思って見返してみたら褒めていたのは『勝負』という作品だった。なぜハムレットだと思い込んだのだろう?)。以下、各編の感想。

 

 

 

『骨仏』

 磁器の白さを出すのに人骨を使うという話、私が初めて見たのは二階堂奥歯の日記『八本脚の蝶』を読んだときだったかな。どことなくエロティックな趣で、十蘭や奥歯のような怪奇幻想好きには響く逸話だろうと思う。

 この話では沖縄の琉歌に日本内地の和歌を被せて引用するシーンもよかった。浮世離れした話でありながら、ファイアンス焼きより白い磁器を発明できたら売れるだろうと算段していたりと妙に俗っぽい。幻想的・衒学的なモチーフと当世風俗に取材した地に足ついた描写が両立された、作者らしい掌編。

 

『生霊』

 狐に化かされて踊っていると思っていたら、向こうもこちらを狐が化けていると思っていた話。結局この娘は狐なのか、主人公も幽霊なのか、曖昧なまま読まされてしまった。それにしてもあざといくらいの狐娘キャラだ。

 

『雲の小径』

 雲中を飛ぶ飛行機が夢の世界や彼岸との通路になる感覚はわかる気もする。主人公は夢の中の雲の道を辿って現実に戻ってこれたけど、本当はどちらが夢だったのかこれもまた曖昧さを残して終わるのがよい。

 

『墓地展望亭』

 正体を知らずに好き合った美少女が実は小国の王女だったという「ローマの休日」みたいな展開!初出はこちらの方が先だけれど。

 主人公の龍太郎君は欧州放浪十五年のシティボーイなのに、発奮すると「おれも日本の男いっぴき!」と男塾じみた気合いを入れ出す愉快な男子です。全体的に『舞姫』の太田豊太郎にもっと気合いがあったら、というような話。

 

『湖畔』

 この短編集の中でもベストの作品。

 この夏、拠処ない事情があって、箱根蘆ノ湖畔三ツ石の別荘で貴様の母を手にかけ、即日、東京検事局に自訴して出た。

 という書き出しで始まる、父から息子に宛てた殺害告白状。醜い容貌ゆえに誰にも愛されず傲慢卑屈に育った男が、初めて愛した少女を妻にするがコンプレックスから素直に愛情を伝えられず、寝取られ、そして悲劇へ……。

 ヒロインの陶がとにかく天使のようでかわいい。そしてくだらない見栄にこだわって陶を衰弱させていく主人公が本当に憎たらしい。憎たらしいが、その気持ちはすごいわかるんだ。自分に自信がないから他人の好意を疑ってしまうし、嫌われるのが怖いから束縛してしまう。そんな人間が妻を寝取られて、世間体から妻を手討ちにしたことにしようとする。殺す意気地もないからこっそり陶を逃すが、陶は夫を思って自殺する。湖から上がった死体を見て男は初めて愛の真実を知り涙を流して後悔する。

 つまり、寝取られでありながら純愛、そんな小説。

 

ハムレット

 ハムレットを演じる役者が上演中の事故(実は仕組まれた事件)で記憶を失い、自分をハムレットだと思い込んで生活するようになる。このプロットだけでいろんな作品が書けそうだが、この『ハムレット』はいつしか記憶を取り戻したハムレットが、再び殺されないようにハムレットを演じ続けていたという二重構造になっている。自分をハムレットと思い込んでいるハムレット役のふりを演じる「佯狂と演技の時間」は、解説の川崎賢子が言うように、それが演じられた戦争中の時代と重ね合わされているかもしれない。

 疎開する母校へ熱烈に愛国的な「訣別の辞」を捧げた直後に、

「日本人全部がこの嘘をわめきたてている。いや、日本人ばかりではない。アメリカ人もソビエト人もイギリス人もドイツ人も、ことごとくこの数年凄まじい芝居を演じつづけている」「正直にいえば、自分は日本必勝を信じていない。客観的事実は、日本が次第に最後の関頭に追いつめられつつあることを証明している」

 と日記に記した1945年6月17日の山田風太郎を思い出した。

 

『虹の橋』

 出自の暗さを引きずる女性が、名前と経歴を他人といれかえて別の自分になり変わろうとする話。自分ではない別の誰かになりたいという思いはこの短編集の中で繰り返し取り上げられている。

 

『妖婦アリス芸談

 フランス、イギリス、アメリカを股にかけた女掏摸の一代記という体で、いろいろな史実の事件や人物をパロディしている。

 齢ですか、齢は六十四。満でいけば六十三と四ヶ月。明治二十年の一月生まれですから、そういう勘定になりましょう。

 という語り出しからグイグイ引き込まれる文章。他の作品もそうだけど、久生十蘭は書き出しがうまくて頭からストーリーに入っていきやすい。アリスが語る犯罪手口は結構ディテールが細かくてわくわくした。