とろろ豆腐百珍

読んだ本の感想などを書きます

打撃マンという思想 あるいは、タイラー・ダーデンはいかに生きるべきか

 先日Kindleで購入した山本康人『打撃マン』を読んで、衝撃を受けた。一見するとストーリーはなんてことない、ムキムキの男(ときに女)がどうしようもない小悪党をパンチ一発で粉砕する、それだけの話に思える。しかし、読み終えたときに感じたのは爽快感よりもむしろ「打撃マン」という生き方がもつ悲しさだった。

 ど迫力の絵とともに示される「牙を失いたくない」「生理的に許せない人間がいる」といったセリフ、所構わず脱ぎたがる打撃マンたちの奇行にばかり目が行くが、それだけではない魅力が『打撃マン』にはある。

 作中で語られる通り「打撃マンは思想だ」とするならば、その内実こそが問題である。

 

 ブライダル企業に勤める伊達保は暴力を恐れるあまり肉体を鍛えることに執心する臆病な人間だった。クレーマーの顧客に殴られ初めて暴力にさらされたとき、彼の中で何かが目覚めた。怒りに身を任せて顧客を殴り倒して以来、彼は弱者をいたぶる理不尽な人間に「だしゃあ」の掛け声とともに拳で制裁を加える「打撃マン」に生まれ変わった。

 

『打撃マン』の物語はこのようにして幕を開ける。暴力による勧善懲悪、しかし『打撃マン』が描くのはそれだけではない。そこでは暴力を行使する者の葛藤もまた伊達のモノローグを通して描かれる。

 

 打撃マン伊達保は正義のヒーローではない。暴力と戦いながら、暴力をふるうことで自身が感じてしまう快感に戸惑い、嫌悪する人間だ。彼の「打撃」が社会的に許されているわけでもない。打撃マンとして拳をふるうほどに、彼の会社員としての地位は下がり地方の支店への左遷が繰り返される。そう、いくら『打撃マン』の世界とはいえ人を殴るのはいけないことなのだ。当たり前に。

 初めて拳を振るうとき、伊達は「闘うことを忘れたら男ではなくなる」と拳を噛みながらも「殴るのは弱い人間だ」と心のなかで繰り返す。「殴るのは弱い人間だ」。しかし伊達の拳がクレーマーの肉を打ったとき、「わたしの全身を貫いたのは不可思議な快感だった」。

 悪党を前にして、己の罪を「拳に聞け」と叫びながら「わたしは正義ではない」と自省してしまうのが伊達保という人間なのだ。『打撃マン』という作品は、ムキムキの人間が悪漢を殴り飛ばす爽快なストーリーとは裏腹に、「打撃」はそれ自体では決して救いになり得ないという極めて現実的な諦観に根ざしている。

 

 打撃マンに制裁される者たちは金や地位、あるいは腕力に物を言わせて他人の尊厳を踏みにじる悪党だ。彼らの一人は「人間には生まれながらに分相応の地位が与えられてんだぜっ つまり貴様はどこまでいってもチンカスでしかないんだよ!!」とうそぶく。悲しいことに『打撃マン』の世界でも、この言葉は一面の真実を捉えている。

 天才として生まれ父親に英才教育を施されたゴルフスターの彼は「スターの俺が暴力なんかふるうわけないだろ!!」と言ってのけた。スターとして生まれた人間は、暴力をふるう必要がない。「分相応の地位」を乗り越えるために暴力に頼らなければならないのは、弱い人間だ。殴るのは弱い人間だ……

「打撃マン」とは世の中の理不尽に抗うために、暴力という手段に頼らざるを得なかった弱い人々のことであるともいえる。

 人を殴るのはいけないことだ。暴力は社会的に許されていない。しかし彼らを暴力に走らせたのは、「分相応の地位」を振りかざす社会そのものだ。暴力をふるうことを正義と思い込んだなら、「打撃マン」も制裁されるべき悪党と同類になってしまう。なのに、暴力をふるうとき自分は快感を感じている……。

 打撃マンという思想は、一見単純明快なようでいて、救いにたどり着かない堂々巡りの深みに人を誘っている。

 

『打撃マン』と同じように肉体と暴力によって格差社会を乗り越えようとした集団が登場する作品といえば、チャック・パラニュークの『ファイト・クラブ』が思い浮かぶ。「ファイト・クラブ」に参加した人々は肉体をぶつけ合うことで、生の実感を取り戻していく。伊達保が「打撃マン」に目覚めたように、『ファイト・クラブ』では臆病で平凡なセールスマンだった主人公がマチズモの権化のようなタイラー・ダーデンと同化することで野性に目覚めていく。

 そして『ファイト・クラブ』の主人公もまた、暴力をふるう快感を嫌悪しつつその暴走を恐れていた。だからこそ、「ファイト・クラブ」が本当に社会を転覆させてしまいそうになったとき主人公は転向しなければならず、暴力のカリスマであるタイラー・ダーデンは死ななければならなかった。

 

『打撃マン』の葛藤や『ファイト・クラブ』の結末から、私が勝手に汲み取ったテーマはこういうものだ。

 暴力そのものは救いになり得ない。暴力に身をさらし、暴力の魅力から目をそらさずに、暴力をコントロールしなければならない。

 私にとって、このテーマを最も鮮烈に描いた作品といえば柴田ヨクサルの『エアマスター』である。

エアマスター』の主人公相川摩季も、暴力によって生の実感を取り戻した人間だ。中学生にして女王と呼ばれるまでの体操選手になった摩季は、体格に恵まれた格闘選手の父の遺伝というまさに「生まれながらの」要因で選手生命を絶たれる。空中殺法の使い手「エアマスター」としてストリートファイトに身を投じることで摩季は闘争心と日々の緊張感を取り戻すが、ファイトを重ねるにつれどんどん強く制御不能になる「私の中の化物”エアマスター”」に怯えるようになった。

「消えてしまえエアマスター」と臨んだラスボス渺茫戦で敗れた摩季をもう一度立たせたのは、誰よりも戦いを避けてきた男深道の「地球上でただ一個の我だ! ただ一個の”誇り”を持って生きろ!!!!」という言葉だった。 深道の言葉は摩季のエアマスターを否定しない。

「おまえの人生がもし最悪になったとしても おまえの場合は”エアマスターだ!”という”誇り”を持って…… 生きていけばいい 弱いおまえならなおさらだ」

 と語る深道が伝えようとしたのは、エアマスター=弱い自分であることを認めて愛せということではないのか。そしてその弱い人間の誇りとは、これまでの戦いでジョンス・リーや金ちゃんが見せてくれた「安いプライド」そのものではないか。

 つまり、伊達保は「打撃マンだ!」という誇りを持って生きていけばいいし、ファイト・クラブの主人公は「タイラー・ダーデンだ!」という誇りを持って生きていけばいい。

 先輩打撃マン陣内が伊達に示したように、己の誇るスタイルを確立すれば、それはいつか思想と呼べるほどのものになるのだから。

 彼らと同じく弱い人間である私も、弱さを誇りに変える何かを見つけて生きていければと願っている。

 

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