とろろ豆腐百珍

読んだ本の感想などを書きます

司馬遼太郎の大阪外語入学年を特定した記録

はじめに

 司馬遼太郎が大阪外国語学校に入学したのは、1941年か、1942年か。

 ふとしたことから、この単純な「年号」の記述が本や論文によって異なることに気がついた。

 結論から言うと、正解は1942年である。

 だが、それを特定するまでがなかなか大変だった。

 司馬遼太郎レベルの超メジャー作家の経歴なんて誤情報が出回ることもないし、調べればすぐにわかるだろうと思っていたのだが、そう簡単にはいかなかったのだ。

 史料批判、と偉そうに言えるレベルではないが、複数の資料に当たって事実を調べる地味な作業も面白いな〜と思ったので、発見から特定に至るまでのプロセスを記録しておこうと思う。

 

 

きっかけは山田風太郎

 きっかけは、山田風太郎の作家デビュー以前の経歴を調べていたことだった。

 風太郎は1947年に探偵雑誌『宝石』の懸賞小説に当選して作家デビューをしているが、実はそれ以前の中学生時代に『受験旬報』や『蛍雪時代』といった受験雑誌に投稿した小説が最初の作品*1だったと聞いて、検索しているうちに江利川春雄さんの以下の記事にたどり着いた。

 

gibsonerich.hatenablog.com

 

 司馬遼太郎(本名・福田定一)が受験生のときに欧文社(現・旺文社)の通信添削会員だったというのだ。昭和十七年度(1942年)合格会員名簿の大阪外国語学校蒙古語部(司馬の出身学校、のちの大阪外国語大学、現・大阪大学国語学部)の欄に「福田定一」の名前がある。

 私が気になったのは1942年合格というその時期だ。なぜなら『受験旬報』(とその後継誌『蛍雪時代』)は欧文社の添削会誌であり、山田風太郎の小説計9作が両誌に次々と掲載された時期もちょうど1940年〜1943年の間だからである。

 

1941年? 1942年?

 へー、ということは司馬遼太郎は作家・山田風太郎誕生の瞬間を目撃していたかもしれないのか……

 と、そのときは思っただけだったが、しばらくして福間良明司馬遼太郎の時代』を読み、つじつまが合わない記述に出くわした。

 

 二年続けて旧制高校受験に失敗した司馬は、〔中略〕一九四一年四月にやむなく進んだのが、旧制専門学校(官立)の大阪外国語学校蒙古語部だった。*2

 

 というのである。

 これでは、先ほどの1942年合格説と1年のズレが生じてしまう。たかが1年の誤差だが、このとき私が知りたかったのは山田風太郎の作品との関係だから、この1年の違いで司馬が受験生時代に読んだかもしれない作品が変わってくる。

 一見、当時の資料である「合格会員名簿」のほうが正しいようだが、『司馬遼太郎の時代』は去年出たばかりで最新の研究を反映しているはずだし、「傍系の学歴と戦争体験」と一章の章題にあるように司馬遼太郎の学歴コンプレックスに光を当てた内容だから、学校の入学年度のような情報を間違えているとも思えない。

 何かの手違いで昨年度の合格者名が名簿に載ってしまったのかもしれないし、かなり可能性は低いが2年連続で「福田定一」が蒙古語科に合格することだって考えられなくはない。

 

インターネットに書いてあることだけじゃわからない

 そこで「司馬遼太郎 大阪外国語学校 年表」「司馬遼太郎 略歴」などのワードで検索をかけてみると、ネットに上げられている年表や研究論文でも1941年説と1942年説が混在していることがわかった。

 

司馬 遼太郎 | 兵庫ゆかりの作家 | ネットミュージアム兵庫文学館 : 兵庫県立美術館 →1941年

 

王海「司馬遼太郎における帝国日本の原体験:大阪外国語学校との関係を中心に」*3 →1942年

 

 特に王海氏の論文と『司馬遼太郎の時代』の間で揺れがあることからみて、司馬遼太郎研究者の間でも知らずしらずのうちにズレが生じてしまっていると思われる。専門家の記述に従えないとなると、どちらが正しいのか素人の私には簡単に判断できなくなってしまった。

 

国会図書館で調べてみる

 インターネット検索では特定ができなかったので、図書館に行った。

 それも東京住みの利点を生かし、日本でいちばん強い図書館、国立国会図書館へ……

 実は初めて訪れたので、利用者カードをつくり、端末で目ぼしい図書を探し……とすべておっかなびっくりやっていった。窓口の人たちはみんな親切でした。

 まずは比較的最近の研究書で、年表の記述がどうなっているのかを調べる。

 

司馬遼太郎書誌研究文献目録』*4

昭和一六年(一九四一)一八歳

 三月、旧制弘前高等学校を受験するが不合格であった。

 四月、大阪市天王寺区上本町八丁目の大阪外国語学校蒙古語部(現・大阪外国語大学モンゴル語学科)に入学する。他の者が特務機関や満鉄(南満州鉄道)などを志望していたのに対して、新聞記者を志望していたという。

 

司馬遼太郎事典』*5

昭和十六年(一九四一)十六歳

中学を五年で修了し、青森県弘前市まで旧制弘前高等学校受験に二十時間かけて行く。数学が最低点でもパス出来ると厳密に計算し、旧制弘前高等学校を受験するが失敗する。

昭和十七年(一九四二)十九歳

四月に大阪市天王寺区上本町八丁目の大阪外国語専門学校(現・大阪外国語大学)蒙古語部に進学する。東洋史言語学者の石浜純太郎の名を講師陣に見付け蒙古語部を選んだが、入学すると講師にその名はなかった。

 

 よく見ると『司馬遼太郎事典』のほうは年齢が間違っている。こういうことがあるから校正ってこわい。司馬の性格がよくわかる前後の記述もおもしろい。

 やはり近年書かれた年表でも1941年説と1942年説は混在しているようだ。

 

本人の認識は1941年?

 続いて、全集に収録された「年譜」を調べようとした。生前に出版された年譜は司馬の自筆に近く、研究者もまずはその記述を参照するだろうと思ったからだ。ところが、ちょうど国会図書館内のデジタル化作業中で閲覧不可能だった。

 そこで代わりに『新潮日本文学』シリーズの司馬遼太郎集内の「年譜」を参照した。こちらの年譜も司馬の談話をもとに編集されたもので、本人のチェックが入っているものと思われる。

 

司馬遼太郎集 新潮日本文学 60』*6

昭和十六年(一九四一・十八歳) 四月、大阪外国語学校・蒙古語科に入学。同期の支那語科に前衛俳句の赤尾兜子、一年上級の印度語科に陳舜臣、二年上級の英語科に庄野潤三氏等がいた。

 

 一応この記述が司馬の校正を経ていると仮定すると、本人の認識は1941年入学だったことになる。では欧文社の合格名簿が誤っていたということだろうか? いや、本人の記憶違いということだってありえるだろう。なにせ、講師の名前を勘違いして入学してしまう人だし……あるいは、福田定一という名前の学生が同時に二人存在した……? なんだか風太郎お得意の伝奇ミステリじみてきた。

 と、もやもやを抱えたまま館内のカフェで名物?のオムカレーを食べながら、友人にこの消化不良感をぶつけてみたところ、思いがけない答えが返ってきた。

「そういう問題は、学校の入学者名簿でもあれば一発なんだけどなあ」

 なにを隠そう、彼は現役の図書館司書で、それだけにこの手の「レファレンス」調査はお手の物なのだ。

 

大阪外国語学校一覧 自昭和17年昭和18年

 早速、大阪外国語学校側の資料をNDL(国立国会図書館オンライン)で調べてみる。「大阪外国語学校」で検索すると……

大阪外国語学校一覧

「大阪外国語学校一覧 自昭和17年昭和18年

https://dl.ndl.go.jp/pid/1276901/1/39

 という資料が出てきた。これは学則や服務規程、学内の地図などの現代の高校なら生徒手帳に記載されるような情報がまとめられたものだ。

 その中の生徒名簿「蒙古語部 第一學年」のページ*7を開くと、確かに「福田定一」の名前がある!(そして当然「第二學年」の中にその名はなかった)

4段目に福田定一の名前を確認できる

 こうしてようやく、福田定一司馬遼太郎が大阪外国語学校に入学した年は1942年であることが明らかになった。

 やはり司馬は1941年に中学校を卒業したのち、1年間の浪人を経験していたのだ。司馬の受験生活は1940年*8〜1942年3月までということになる。

 そして、この間の1940年〜1941年こそ、山田風太郎の学生小説が『受験旬報』に頻繁に掲載されていた時期にあたる。私が当初調べようとしていた、「司馬遼太郎山田風太郎の初期小説を読んでいた」説にも少し説得力が増したように思われて、よかったよかった。

 というか、この「大阪外国語学校一覧 自昭和17年昭和18年」、NDL上で普通に無料で閲覧できる。わざわざ国会図書館まで足を運ぶ必要はなかった……ってコト!?

 

なぜ2つの説が広まったか

 1941年説がなぜ広まったかについては推測の域を出ないが、司馬遼太郎本人が全集や選集に寄せた「年譜」、あるいは他のエッセイの中で1941年入学としたものがいろいろな媒体で参照され、孫引きされてきたのだろう。

 未見の文藝春秋刊『司馬遼太郎全集』の「年譜」も1941年入学となっていたのではないかというのが私の予想だが、お手持ちの方どなたか調べてください。私もデジタル化が完了して、司馬遼太郎著作権が切れたら(44年後)また見てみようかな……

 冒頭にも書いたが、司馬遼太郎くらい有名な作家に関する単純な事実ですら、裏を取るのは大変なんだなあ、と思わされたここ数日間だった。

 

 

 

 

*1:本名の山田誠也名義では1937年から母校・豊岡中学の機関誌『達徳』にいくつかの小説を発表していた。また山田風太郎ペンネームが初めて使われたのは、『映画朝日』に投稿して採用された「中学生と映画」というエッセイだったので、山田風太郎名義の小説としては最初の作品ということになる。

*2:福間良明司馬遼太郎の時代』中公新書、2022年、p27〜28。

*3:荒武賢一朗・宮嶋純子編著『近代世界の「言説」と「意象」:越境的文化交渉学の視点から』(関西大学文化交渉学教育研究拠点、2012年)所収。

*4:松本勝久著、文献目録・諸資料等研究会編『司馬遼太郎書誌研究文献目録』勉誠出版、2004年、p318。

*5:志村有弘編『司馬遼太郎事典』勉誠出版、2007年、p370。

*6:司馬遼太郎司馬遼太郎集 新潮日本文学 60』新潮社、1970年、p765。

*7:大阪外国語学校編『大阪外国語学校一覧』自昭和17年至昭和18年,大阪外国語学校,昭和15-18. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1276901 (参照 2023-01-29)。

*8:当時は中学4年時から上級学校への受験が可能。司馬遼太郎は旧制大阪高等学校を受験して不合格に終わっている。