とろろ豆腐百珍

読んだ本の感想などを書きます

魯迅の寂寞と大塚愛「SMILY」

 

 最近は魯迅の小説をよく読んでいる。魯迅は好きな作家で、何が好きかというと悲しい時も悲しい自分自身を疑っているような煮え切らなさが好きだ。有名な「故郷」の「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」という一節も、希望も絶望もいまいち信じきれない性分が言わせたものじゃないか。

 

「ノラは家出してからどうなったか」という講演では、一時的な激情に駆られ過激な行動に出て犠牲を増やすのではなく、粘り強い闘いにより女性の経済的権利獲得を目指すべきと説きながら、講演の終わりになって「進んで犠牲となり苦しむことの快適さ」を語り出すくだりがある。「呪いを受けているといっても、結局は、恐らく歩いているほうが休むより性にあうので、それでいつまでも歩きまわっているのであります」と言って、今までの論をうやむやにしてしまうのだが、ここらへんも魯迅の「闘争の理想はそりゃあるけど、そうはいっても俺の性には合わないし……」という煮え切らなさを感じられて、人間らしくて好きだ。

 

 魯迅は「故郷」「阿Q正伝」「狂人日記」などが収録された第一創作集『吶喊』の「自序」で作品を書き始めた動機を語っている。「思うに私自身は、今ではもう、発言しないではいられぬから発言するタイプではなくなっている。だが、あのころの自分の寂寞の悲しみが忘れられないせいか、時として思わず吶喊の声が口から出てしまう。せめてそれによって、寂寞のただ中を突進する勇者に、安んじて先頭をかけられるよう、慰めのひとつも献じたい」。

 

 吶喊とは兵士があげる鬨の声のことなのだが、その吶喊を必要としている勇者が感じる、そして魯迅がかつて感じていた寂寞とは何なのか。それは、身のおきどころがないような寂しさのことだ。

 

 若き日の魯迅は文芸による国民の精神改革を志し、仲間と同人誌の発行を計画して挫折した。この挫折が魯迅に「これまで経験したことのない味気なさ」を感じさせることになる。「見知らぬ人々の間で叫んでみても、相手に反応がない場合、賛成でもなければ反対でもない場合、あたかも涯しれぬ荒野にたったひとりで立っているようなもので、身のおきどころがない。これは何と悲しいことであろう。そこで私は、自分の感じたものを寂寞と名づけた」。

 

 魯迅は寂寞から逃れるために「自分を国民の中に埋めたり、自分を古代に返らせたり」して心に麻酔をかけた。今では思い出すに堪えないことばかりだが、その麻酔のききめからか、青年時代の悲憤慷慨はもう起こらなくなった。とはいえ、かつての自分と同じように、寂寞を感じながらもがいている青年がいる。その人々に対して献じるせめてもの慰め、激励、応答の叫びとして書かれたのが『吶喊』に収められた作品なのである。

 

 魯迅の作品そのものよりもこの「自序」の文章が好きなくらいで、もう何度も読み返しているのだが、そのたびに大塚愛の「SMILY」、その中の「泣きたいところは1人でも見つけられる 笑って笑って君の笑顔が見たい」を頭に思い浮かべている。このフレーズも本当にそうだよと思っていて、シャッフル再生で流れるたびに泣きそうになってしまう。別に魯迅大塚愛の作家性が似ていると言いたいのではなく、ただただ私の好きな作品の、私の性に合う部分をぬき出してきてうなずいているだけなのだけれど。でも2番で「せつない気持ちは口ぶえにあずけてみよう」と歌っているように、「SMILY」の楽天さの裏には大塚愛なりの悲しみがあるのかもしれない。それでもなお同じ寂寞の最中にある人々のために歌えるとしたら、それを健気とよばずしてなんとするのか。

 

 昔ちょっとしんどい時期に友人の「泣きたいところは1人でも見つけられるって、真理だよ」という言葉に救われた経緯もあり、私の寂寞を慰めてくれるのは大塚愛だけだ!という気持ちがあるのです。