とろろ豆腐百珍

読んだ本の感想などを書きます

武田泰淳『ひかりごけ』の感想

 武田泰淳の中編小説四篇を集めた新潮文庫本『ひかりごけ』を読んだ。収録順に「流人島にて」「異形の者」「海肌の匂い」「ひかりごけ」と続き、どれも1940年代後半~50年代前半の作品。

 四つの作品どれにもいえることだが、光の描写、色彩の描写に力が入っていて常に新鮮な驚きを与えてくれる。こいつにはこんな風に風景が見えとんのか、と思わせる言葉の使い方で語り手の眼を通した世界を感じさせてくれるのが好きさ。
 例えば「海肌の匂い」の海中を泳ぐ女の肌のブヨブヨとした不気味な感じ、身をほじくるうちに巻き貝の形状、質感、色彩の異様さにふと気付いて不安になる感じ。些細な感傷あるあるから世界を立ち上げてしまうのがうまくて、いやあ腕もってんね~と感心してしまう。

 表題作の「ひかりごけ」については、実話の伝聞を基にして食人は罪か、を世に問うたセンセーショナルな作品というイメージだった。もちろんその面はあるが、全体を通してテーマになっているのは食人という行為そのものではなく生きることそのものの罪、あえて言えば原罪についてだと思う。

ひかりごけ」は三部構成になっていて、第一部は北海道羅臼地方へ訪れた「私」の紀行文の体裁をとっている。洞窟の暗闇で光を放つひかりごけの群生を見物した帰り、「私」は案内人の中学校長から知床半島の先端ペキン岬で戦時中に起きた遭難事件について聞かされる。そこでは羅臼沖合で遭難した難破船の船員たちが極寒のペキン岬で生死の境をさまよい、船長だけが仲間の船員の死体を食べて生き残ったことが語られた。

 この事件を受けて「私」が船員たちの葛藤を想像して書いた「読む戯曲」が第二部、第三部だ。戯曲の第一幕では三人の船員とともに洞窟に逃げ込んだ船長が食人に至るまでのドラマ、第二幕では法廷での船長の弁明が描かれる。

 第一幕では、仲間の肉を口にした船長と船員西川の首の後ろにひかりごけの光に似た緑金色の「光の輪」が見える。本人には見ることができないこの光は、二人が人の肉を口にした罪の証なのかと思わせられる。ところが第二幕で「私の首のうしろには、光の輪が着いているんですよ。よく見て下さい」と主張する船長の首に光の輪は見えず、船長を裁こうとしていた裁判長、検事、弁護人、傍聴人たちの方にこそ光の輪が光っているのだ。

 

船長 見て下さい。よく私を見て下さい。
(船長を囲む群集の数増加し、おびただしき光の輪、密集してひしめく)
(「みなさん、見て下さい」の船長の叫びつづくうち、幕しずかに下りる)

 

 このト書きでもって戯曲は終幕となっている。

 第一幕では食人の罪を表していた光の輪が、第二幕の終わりでは誰もが持つものとなり、唯一「全く悪相を失って、キリストの如き平安のうちにある」船長だけが光の輪から免れている。

 ひかりごけの光は見ようとしても見えず、視界の外れで明滅するもので、「私」も案内人もいつの間にかひかりごけの層に足を踏み入れていたという序盤の紀行文中の記述がここで思い返される。

 とてつもなく陳腐な感想だが、人間だれしも食人に限らず生きる為に罪を犯していて、その罪を自覚している者だけがまだしも救われている(ように見える)的な話をしているなと思った。

 

 第一幕でも第二幕でも、船長はしきりに「俺は(私は)我慢している」と語る。何を我慢しているかはっきりと言葉にすることはできないのだが、とにかく彼は我慢している。寒いのがせつないのか、腹が減るのがせつないのか、仲間の肉を喰ったのがせつないのか、助かるあてのないのがせつないのか、何がせつないのかわからないくらいせつなくて、何を我慢しているのかわからないくらい我慢している。

 ここで無理やり私の好きな漫画に結びつけると、この「我慢している」せつなさが『hなhとA子の呪い』の針辻君を思わせて、こちらが切なくなってしまう。生きるために目の前の人の肉を食らいたくなる衝動や、好きな人を犯したくなる衝動に気付いてしまうと、「我慢する」ことが生きることになってしまってとてもつらい。
 自分の中の暴力性を認めるのはそれが救いへの道だと分かっていてもしんどいものだ。