とろろ豆腐百珍

読んだ本の感想などを書きます

雁、金瓶梅、窓の女

 10年ぶりくらいに森鷗外の『雁』を読み直した。

 初めて読んだときは「僕」や岡田の気持ちになって読んでいたのが、今読むと末造の心の動きも分かる、お玉の変化にも同感できる。前に読んだときよりも余程面白く感じられた。10年前は、もし自分が岡田のようにモテたら「僕は岡田のように逃げはしない。僕は逢って話をする。自分の清潔な身は汚さぬが、逢って話だけはする。そして彼女を妹の如くに愛する」と語る「僕」のモテなさそうさを面白がっていた記憶がある。

 今さら『雁』を読んだのは山田風太郎『警視庁草紙』の中の「春愁 雁のゆくえ」の章を読んだからなのだが、そちらを読むまで、お玉が末造の妾になる前に騙されて悪徳巡査を婿に迎えていたなんて話はすっかり忘れていた。名作のこういう小さいエピソードを拾ってきて意外な形で自作に取り入れる風太郎の手際は本当に鮮やかだ。

 森林太郎がジレンチウム!とドイツ語を叫んで「円錐の立法積を出す公式」を急に解説しだす場面や、「ああ、賀古鶴所のごとき良友は世にまた得がたかるべし」と『舞姫』から引っ張ってきたラストの文章はパロディだと分かりやすいが、「学生の寄宿舎は、灰色の瓦を漆喰で塗りこんで、碁盤の目のようにした壁のところどころに、腕の太さの木を竪にならべて嵌めた窓のあいている門長屋で、その中で学生は、後代から見ればまるで野獣のような生活をしていた」なんて描写は風太郎のものか鷗外のものかちょっと見ただけじゃ分からない。

 パロディつながりで言えば、『雁』も作中で岡田と「僕」が読んでいる『虞初新詩』や『金瓶梅』の物語を下敷きにしている。特に『金瓶梅』は、岡田の蛇退治の話を聞いた「僕」がお玉を『金瓶梅』のヒロイン潘金蓮に見立てる文章もあり、かなり意識されているように思える。

 武松や西門慶にアタックしまくり自ら夫を毒殺する潘金蓮とお玉とではだいぶ性格が違うようでいて、お玉も末造のしょうもなさにすぐに気づいて他の男を待ちこがれるようになっているので案外似ているかもしれない。窓に寄り、門を掃除しながら家の前を男が通るのを待つ境遇も似通っている。

(『金瓶梅』と『雁』の関係については以下の論文が参考になった。

阮毅「森鷗外と『金瓶梅』」

https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://soka.repo.nii.ac.jp/record/37120/files/nihongonihonbungaku0_24_5.pdf&ved=2ahUKEwil4L2myKGGAxVGka8BHbFLBIoQFnoECBkQAQ&usg=AOvVaw0tMkd5bIhpQyci8dzW9UpN )

 

 10年前は「窓の女」について、ただ誰かが連れ出してくれるのを期待して待つだけで主体性のない気まぐれロマンティック人間と思っていたのだが、今読むと全然そんなことはなく、どうしようもない状況にしたたかに抵抗しながらじっと好機を待っている強い人だと気付かされた。

 私はこれまた山田風太郎の翻案名作『妖異金瓶梅』の潘金蓮が邪悪で健気で清々しくて大好きなのだけど、彼女も「窓の女」の系譜で『雁』のお玉とつながっているのだ。

 せっかくなので小説の舞台になった無縁坂や不忍池を見てやるかと週末に暑さをこらえて上野まで行ったが、不忍池は思ってたよりデカかった。

 この池の端から小石を投げて雁をワンキルした岡田君は、ドイツに行かずにアメリカでベースボールをやったほうがいいんじゃないでしょうか。そういえば甲子園に連れてってとせがむ南も「窓の女」だ。