とろろ豆腐百珍

読んだ本の感想などを書きます

魯迅 野草と雑草

 先月、岩波文庫魯迅著・竹内好訳『野草』が重版された。「魯迅文学の最高傑作」(竹内好)とも評される詩集は、難解かつ魯迅の戦闘性と鬱屈がストレートに出ていて、正直小説作品より楽しめなかったのだが、難解さを解きほぐす手掛りが欲しくて、これも前から気になっていた秋吉收『魯迅 野草と雑草』(以下『野草と雑草』)を入手した。

 

※読みながらの感想メモはScrapboxに。

 https://scrapbox.io/uta8log/%E9%AD%AF%E8%BF%85%E3%80%80%E9%87%8E%E8%8D%89%E3%81%A8%E9%9B%91%E8%8D%89

 

『野草と雑草』は序章で、従来中国語原文通り「野草」と訳されてきた『野草』のタイトルは、日本語ではむしろ『雑草』と訳すのがふさわしいのではないかと、中国における「野草」「雑草」の用例を引きながら論じる。

 そして、魯迅の『野草』はそのまま『雑草』という題の与謝野晶子の詩や、タゴールや徐志摩といった従来魯迅の論敵とされてきた人々、弟周作人が訳したボードレール佐藤春夫芥川龍之介……など同時代の様々な作品から多大な影響を受けていることを論証していく。

「最高傑作『野草』は模倣から成立した!?」という帯文はやや過激だが、魯迅が『野草』執筆にあたってかなり多くの作品を参考にしていたことは事実のようだ。

 魯迅は詩の芸術性を高く評価しているが故に、模倣から出発せざるを得ない自身を詩人失格とみなしていた。だから『野草』以降散文詩は書かず、他人に詩人と呼ばれることを嫌がり続け、私に創作は書けないと卑下し続けた。魯迅はいわば創作コンプレックスだったのではないかという指摘が面白かった。大作家魯迅がとたんに身近な存在に思えてくる。

 実際には詩をあまり作らなかった魯迅が、その自称に反して近代中国最大の「詩人」と評価されるようになったのは、毛沢東が称賛したのが魯迅の小説や雑文ではなく詩だったからという説にも説得力がある。

 

『野草』というタイトルに即して、魯迅の植物趣味についても触れられている。

 日本留学から帰国して故郷の紹興で教師をしていた時の魯迅の趣味が「植物採集」だったというのが、田山花袋田舎教師』との相似を感じて面白い。

「ぼくはとことん無精になって書物を手にすることもありませんが、ただ植物採集は昔どおり、(……)これは学問をするのではなくて、酒や女の代わりです」(p166)

 挫折して地方に逼塞したインテリが田舎でも続けられる、数少ない科学的趣味が植物採集だったのかもしれない。「植物採集といっても農夫には理解できないから薬草取りと言い訳している」みたいな記述もあり、知識階級の新しい趣味としての植物採集ブームを感じる。

 

 岩波文庫の『野草』が先日まで入手困難だったことが証明するように、研究者以外の一般読者には触れづらい魯迅の実像を伝える文章が豊富に引用されているのもありがたかった。

「いつも『暗黒と虚無』のみが『実在』であると感じ、しかも、どうしてもそれらに対して絶望的な抗戦をやる」(p114)

 という魯迅自身が書簡に残した言葉、さらに

 「掙扎〔もがき〕」とは、竹内好がその著『魯迅』(一九四四年)の中で、魯迅の生き様を最もよく表すものとして提起した、魯迅文学を象徴する一語であった。(p124)

 という『野草と雑草』著者による言葉にはしみじみ納得。

 この、敗北を誰よりも確信しながら絶望的な抗戦に身を投じる姿勢が、高潔な女騎士のようで、私が魯迅を好きな理由なんだよな。だからこそ彼は負けた時に一際輝く。魯迅アグリアス