とろろ豆腐百珍

親知らずの炊いたん食べたいね

名の効用

 映画『レディ・バード』を見た。

 ニューヨーク(都会)の生活に憧れながらサクラメント(田舎)のカトリック校に通うクリスティン(シアーシャ・ローアン)が過ごした高校最後の一年間の青春。

 物語の最後、親からもらった名前に反抗してレディ・バードという新しい名前を自分に付けていたクリスティンが、高校を卒業して一人暮らしをはじめたニューヨークからサクラメントの両親に電話で「クリスティンという名前、気に入っているわ」と伝える場面がある。

 地元を離れたクリスティンが、退屈な田舎町として疎んじていたサクラメントでの日々を大切なものとして受け入れることができるように成長したことを象徴するラストシーン。

 

 ニューヨークに上京してきた若者と新しい名前ということで同じくアメリカの小説家トム・ハンクストム・ハンクス)の「配役は誰だ」(『変わったタイプ』所収)と比べてしまう。

 こちらではアリゾナから女優になる夢を抱いて上京してきたものの何もかもうまくいかないスー・グリーブが名プロデューサーのボブに野暮ったい実名に代わるオノレ―・グッドという新しい名前をつけてもらい成功するというストーリー。

 

 トム・ハンクストム・ハンクスだが『レディ・バード』も監督・脚本のグレタ・ガーヴィグが女優になる前の自身をモデルにした自伝的作品で、二人ともスターになっている。

 アメリカンドリームで成功するには実名がいいのか芸名がいいのかどっちなんだい。きんに君も実名にしていたら筋肉留学に成功していたのかい。

 

茶の話

 たまにお〜いお茶を飲むと旅行に来た気分になるね。

 自分が平生好むところのお茶は綾鷹なので、お〜いお茶を口にするのは研修や出張、合宿といった場で他人から供されたときがほとんどだ。もしくは仕出し弁当に付いてきたときなど。

  そうしたものに伴う日常とはちがった雰囲気が思い出されているのかもしれない。

 祖父や祖母に連れられて旅行に行ったときに飲んでいたのもいつもお〜いお茶だった。まだそれは綾鷹伊右衛門などなかった頃のことである。

 

 昔は駅で弁当と一緒に信楽焼の土瓶に入ったお茶が売られていたそうだ。

 それが次第次第に姿を消してビニールの容器になり、缶になり、ペットボトルになってきた。

 車窓で飲む土瓶入りのお茶は年配者にとって郷愁をさそうものになっているだろう。

 

 自分にとってのお〜いお茶もノスタルジーの対象になっていくのかもしれない。

 

1R1分34秒

 町屋良平「1R1分34秒」を読んだ。

 昼休みに喫茶店で読んだのだが、この疾走感は何なのだろう。

 休みを切り上げて職場に戻ってもまるで仕事をする気にならない。

 そのとき手元にあったメモ帳には

 「文字を追う眼球を思考の速さが追い越して毛細血管をふっとうさせる」

 と走り書き。要は文章のリズムがいいということなのですが、気取ってるね。

 運動とリンクしたボクサーの思考の速さが、文章を読み進める自分にも乗り移る感覚があった。

 デスクに座ってパソコンに向かってる場合じゃねえ!という衝動があった。

 とりあえず高速でメールをタイピングした。

 ファイルを添付し忘れた。

 

 小説のなかで主人公の「ぼく」が同性と肉体的に接近する場面が二度ある。

 一度目は眠っている「友だち」の手のひらの傷に消毒薬を塗る場面、二度目はトレーナーの「ウメキチ」にふくらはぎを揉まれる場面。

 ここの場面がとてもよかった。BL的切なさとはちがう形で、男性同士の関係性を身体感覚を介して表現しているのがすごい。

うーんと唸り、眉を寄せて痛みの夢をみても、友だちは起きない。ぼくはおもしろくなって、汚れをながす用途と兼ねるよう贅沢に、消毒液をぜんぶ友だちの手のひらに注ぎきった。ピンクに染まった皮膚のなかをちいさく菱型にかさなって破れた擦り剥き傷を洗いながすと、二センチほど岩で切ったのだろう切り傷の全貌があらわれてふたたび血を吹きだし、ブクブクと呼吸するようだった。朝陽に反射して、友だちの傷がキラキラひかった。縫うか縫わないか微妙なサイズの傷だ。それほど深くはなさそうだけど、血が充満していて奥までよくみえない。ねむる友だちの傷をみているぼくは妙にきもちがおちついて、いつしかこくこく眠りにおちていた。

 

 11月号の『新潮』に載っています。

日記について

 日記をつける。

 

 最近は日記に関する文章を読むことが多い。

 わかりやすいところでは、荒川洋治という人のエッセイ『日記をつける』。

 有名無名、いろんな人の日記や日記のようなものを紹介した本。

 好きなのはゲーテの「イタリア紀行」を引用したあとの一節。

 一八七七年七月

 二十七日、金曜日。

 なにしろあらゆる美術家が、老いたるも若きも、私の僅かばかりの才能をととのえ、ひろげることに助力してくれる。

 

 天気はパス。いきなり本題に飛び込むのである。でも、突然「なにしろあらゆる」なんていわれてもね。

 

 他には漫画家panpanyaがホームページで公開している日記も読んでいる。

 SURMICLUSSER

 直近だと「フルーツティー」「めりはり」「ツナマヨおにぎり/ボディメンテ」と続いている。すぐに忘れてしまう気になるものや言葉、夢を集めて切り貼りしたスクラップブックのような日記。

「考えたこと」

 人々の頭の中にある「バーベキュー味」を集めて
 平均値をとった「バーベキュー味」と
 実際のバーベキューの味には大きな差があるのではないだろうか

 

 シーチキンの対義語はスカイフィッシュなのではないだろうか

 

 力の抜けた文章が心地よい。たまに絵もある。

 

 同じ『楽園』で連載している漫画家の平方イコルスン(二寸)のウェブログもよい。

 一瞬 - livedoor Blog(ブログ)

 上京して町を散歩した話やyoutubeで聴いた音楽の話に混じって等身大のタラバガニとカニ殺しの名人が戦う話が書かれていたりして油断できない。

 「」という記事は震災後に書かれたあらゆる文章のなかで一番誠実で、これだけでも読んでもらいたい。

 初単行本の『成程』に収録された掌編以来、平方二寸の文章作品は発表されていないがこれほど寂しいことはない。

 

 自分も中学二年以来ずっと日記をつけている。

 なるべくその日起きたことだけでなく感じたことや思ったことを書き付けるようにしている。

 ところが数年後に読み返してみると何をした、どこに行ったと書かれている出来事はたいてい思い出すことができるものの、その時感じたとされている感情はまるで理解できないことの方が多い。

 そのズレは時間が経っているほど大きくなるが、一週間二週間前のことでもどこかに違和感があるものだ。

 本当にこの日記は自分が書いたものなのか。誰か全く別の人間が過ごした一日のことではないのか。

 長い間日記をつけていると、そうした一文に出会うことがある。

 現実と僅かにズレた異世界に手軽に行くことができる。しかも主人公は自分自身。

 なんだ日記とは異世界転生ツールのことだったのか。

イキ告の系譜 ~『三四郎』から斉藤由貴まで~

 オタクは行き成り告白をする。

 修学旅行で、卒業式で、成人式で、オフ会で、同窓会で。

 いちど声をかけてもらっただけの同級生に、料金内のサービスをしただけの風俗嬢に、初対面のフォロワーさん(成人済)に。

 好きでもない相手からの唐突なイキ告は現実世界においては恐怖でしかないが、フィクションの世界におけるそれは、圧倒的な快感を孕む。愚かな告白に及ぶオタクに己の弱さを投影し、手ひどく打砕かれる罰の予感に心は震え、予感が現実となったとき剔出された心臓から滴る血は甘露となって再び我が喉を潤すだろう。アリストテレスはその著書『詩学』の中で「イキ告によってこそ初めてカタルシス≪浄化≫は達成される」と語っている。

  イキ告の多くは異性と接した経験の少ないオタクが、ちょっとした優しさを自分への好意と勘違いするところから始まる。好きなバンドの話で盛り上がった。修学旅行の見学班に入れてくれた。落ちた消しゴムを拾ってくれた。

 ところがイキ告被害を受けた人々はみな一様に「そんなつもりじゃなかったのに……」と困惑を口にする。強者にとってそれは好意どころか優しさですらなく、ほんの気まぐれに過ぎなかったことがほとんどだ。

 この溝は永遠に埋まらない。

 空の青と海の青が決して混じわることがないように、イキ告するものとイキ告されるものはどこまで行っても交わらない。

 ここに二つの優れたイキ告文学がある。一つはイキ告するものの愚鈍さと葛藤を描いた小説。もう一つはイキ告されるものの気まぐれな自己愛を歌い上げたアイドルソング

 時代もジャンルもかけ離れた二つの作品を通して、イキ告という現象の儚さを噛みしめてほしい。

 

三四郎

 夏目漱石日露戦争の直後に『三四郎』を書いた。九州の田舎を出て帝大の門をくぐった文学青年小川三四郎を主人公に、迷える若者の煩悶を描いている。口下手・運動音痴で熱中できるものもなく平凡な日常を送る、どこにでもいる学生……といった体をとりながらいつの間にか個性的な友人や先生と知り合い楽しそうなスクールライフを送り、故郷にはなんだかんだ自分を慕ってくれる幼なじみまでいる三四郎はラブコメの主役にふさわしい。

 一目惚れした"池の端の女"里見美禰子と知り合った三四郎は美禰子の思わせぶりな態度に惹かれていくが、美禰子には他に好きな男がいるようで……果たして美禰子は三四郎のことをどう思っているの!? という小説。

 中盤に三四郎と美禰子が急接近する場面がある。

 三四郎、美禰子、英語教師の広田先生、美禰子と恋仲であるようにも見える野々宮、野々宮の妹のよし子が連れ立って、団子坂の菊人形祭を見物に行く場面。

 一団から離れてひとり出口に向かう美禰子を追って三四郎は会場を出る。人混みに中てられたという美禰子とそのままふたり、祭の喧騒を抜け出して静かな町をさまよい、小川のほとりで空を見上げる三四郎。「このままふたりでパーティを抜け出しましょう?」というのは定番のシチュエーションだが……。

 親密度を上げる絶好のチャンスにもかかわらず「広田先生や野々宮さんはさぞ後で僕等を探したでしょう」と余計なことを聞いてしまう三四郎に対し「責任を逃れたがる人だから、丁度好いでしょう」と答えたり、美禰子は野々宮への当てつけで三四郎を連れ出したようでもある。後の展開から考えると実はこのとき美禰子には縁談が持ち上がっていて、結婚して家に入るか、今までの自由な日々を続けるかで迷っている。あてがわれた縁談での結婚と、野々宮との恋愛との間で揺れる美禰子は、自分と上京したばかりの無垢な三四郎を聖書の迷える羊《ストレイシープ》にたとえてつぶやいたりする。しかし一方の三四郎は「女と何話したらいいかわからんし」と中学生レベルの思考で黙っている。

三四郎はこう云う場合になると挨拶に困る男である。咄嗟の機が過ぎて、頭が冷かに働き出した時、過去を顧みて、ああ云えば好かった、こうすれば好かったと後悔する。と云って、この後悔を予期して、無理に応急の返事を、さも自然らしく得意に吐き散らす程に軽薄ではなかった。だから只黙っている。そうして黙っている事が如何にも半間であると自覚している

迷える子《ストレイシープ》という言葉は解った様でもある。又解らない様でもある。解る解らないはこの言葉の意味よりも、寧ろこの言葉を使った女の意味である。三四郎はいたずらに女の顔を眺めて黙っていた。すると女は急に真面目になった。

「私そんなに生意気に見えますか」

 

 この残酷なまでの見えているものの差が純朴な三四郎をイキ告へと駆り立てる。『三四郎』はイキ告するものとされるものの目線の差が破滅を招く「勘違い型」のイキ告だ。

 別れ際、水たまりを跳び越えようとしてバランスを崩し三四郎の腕の中に飛び込んだ美禰子が再び「迷える子《ストレイシープ》」とささやいたときから三四郎は美禰子に呪縛された。しかし三四郎が恋した美禰子は颯爽と現れた婚約者に連れ去られ、あなたに会いに行ったのですという告白に答えが返ることは永久にない。

 いつの世も恋破れたオタクは思わせぶりな女を「無意識の偽善者」呼ばわりして糾弾するが己の幼さを恥じることはない。

 

『AXIA~かなしいことり~』

ごめんね今までだまってて 今まで彼がいたことを 言いかけて言えなかったの 二度と逢えなくなりそうで

 詩人として90年代に人気を誇った銀色夏生が作詞作曲を手掛けた「AXIA~かなしいことり~」で斉藤由貴は彼氏がいるにもかかわらず男友達から告白された女性の心情を歌っている。

すずしい夜明けの海辺で あなたは子どもみたいね 私はぼんやり遠くを見てた ふたりはかなしいことりね

 二人の関係性は三四郎と美禰子のそれと相似している。二人きりでもどこか達観した女と何も知らない「子ども」の男。

 だが斉藤由貴三四郎の視線に無自覚な美禰子とは違う。

今ではあなたを好きだけど 彼とは別れられない それでもあなたを忘れない ふたりは迷ったことりね

 告白を拒否した上でストレイシープよろしく自分と男を二人とも「迷ったことり」にくくってしまう。一見迷う二人の立場は対等のようだが、彼氏がいるとも知らずに無邪気に恋に落ちた「子ども」の男に対して、斉藤由貴は男の視線に気付きつつ、しかも彼氏と別れられないことを知りながらも、告白させるまで男と遊び続けているのである。無垢なオタクをもてあそび「迷ったことり」の悲しさに酔いしれる斉藤由貴は生粋のオタサーの姫

打ち寄せる波から逃げて あなたの腕に抱きついたのに なぜ見つめたら目をそらすの いつものようにふざけていて

 わざわざ腕に抱きつき、見つめるあざとさを発揮しておきながらいつものようにいろと要求する残酷さがすばらしい。

いつまでもこうしていたいけど 帰れないけど帰るわね これから誰を愛しても ふたりは胸が痛いのね

 ここでもまた斉藤由貴は自分と男を勝手に「ふたり」にくくって「これから誰を愛しても胸が痛いのね」などと決めつけるのである。フラレた上に彼氏がいたことまで知らされ、明らかにオタクの胸が痛いのは今なのに……。

 斉藤由貴はイキ告してきたオタクの心などこれっぽっちも考えない。ただかわいそうな自分の世界の添え物としてしか存在を許されない。気まぐれな神である斉藤由貴に恋をしてしまった愚かなオタクの物語。

「AXIA〜かなしいことり〜」においてイキ告は神話になった。

 

 

AXIA ?かなしいことり?

AXIA ?かなしいことり?

 

 

 

三四郎 (新潮文庫)

三四郎 (新潮文庫)

 

 

 

 

 

映画『勝手にふるえてろ』とパンクブーブーの死

 昨年綿矢りさ原作『勝手にふるえてろ』映画化の報に接したとき、キャストを確認して軽く失望した。

 なぜパンクブーブーがいないのか。

 "ニ"がパンクブーブーではないのだ。黒猫チェルシーのボーカルなのだ。

 自分は原作小説を読んだときから"ニ"を実写化するならパンクブーブーのツッコミしかいないと思っていたのである。勘違いした暑苦しさと、状況に流されないツッコミ力と、コンソメの口臭と……これらを兼ね備えていそうな存在としてパンクブーブーのツッコミ以上の適役はいないではないか。

 "ニ"は主人公のOLヨシカに初めて出来た現実の彼氏であり、ヨシカの10年来の脳内妄想彼氏"イチ"の恋敵である。『勝手にふるえてろ』の物語は俗にいう"こじらせ女子"ヨシカが妄想彼氏"イチ"と現実彼氏"ニ"のどちらを選ぶのかを軸に展開し、"ニ"は夢見がちなオタク女子ヨシカの暴走する妄想に振り回されながらも少しずつヨシカとの距離を縮めていく。自意識過剰のあまりコミュニケーションを恐れるヨシカの被害妄想に"ニ"があきらめずに的確なツッコミを入れていくのが読みどころの一つであり、コミュニケーションのあり方という『勝手にふるえてろ』のテーマの根幹に迫るものである。

 ここには軽快なテンポを緩めないツッコミが可能な役者を配してほしかったのに黒猫チェルシーのボーカル(渡辺大知)……イエモンのトリビュートアルバムでやたらねっとりと「パール」を歌い上げていた印象しかない。

 ついでに言うと主人公ヨシカ役も松岡茉優ではなくコントドラマ『SICKS』で腐女子役を熱演していた千眼美子さんこと清水富美加さんあたりの方がウケるのではとも思った。

 要するに渡辺大知にせよ松岡茉優にせよ、原作小説『勝手にふるえてろ』のポップさを表すには真面目な役者すぎるのではと自分は思ったのだ。とはいえ実際にパンクブーブーのツッコミにまともな演技ができるとも思えないし、詰まるところ『勝手にふるえてろ』の実写化自体に無理があるのでは……?

 

 ここまで書きつつ映画自体は公開のタイミングで見逃してしまい、SNS上で好評を博しているのを眺めているだけだったのだが、最近早稲田松竹で再上映されたので今更ながら観てきた。

  エグ面白。そして怖い。くすりと笑った口もとが曖昧な角度で引きつるような。

 原作から7年の時を経て映画化された『勝手にふるえてろ』が示すのは、オタク女子の敗北であり、失われたパンクブーブー性であり、現代OLが抱える生きづらさの絶望である。

 原作と映画の違いは冒頭のシーンに象徴されている。

 とどきますか、とどきません。光りかがやく手に入らないものばかり見つめているせいで、すでに手に入れたものたちは足元に転がるたくさんの屍になってライトさえ当たらず、私に踏まれてかかとの形にへこんでいるのです。

勝手にふるえてろ』(文春文庫、p7)

 原作『勝手にふるえてろ』は綿矢りさの真骨頂ともいえるこのリズミカルかつシニカルな文章から書き出される。届かないものへの羨望とすでに手に入れたものへの無感動を語る主人公ヨシカはこの冒頭の文章で読者に宣言する

 でも私はイチがよかった。ニなんていらない、イチが欲しかった。

勝手にふるえてろ』(文春文庫、p9)

 原作『勝手にふるえてろ』において現実ではなく届かない妄想を追い求めるヨシカの暴走は自ら選び取られたものだった。

 

 一方、映画『勝手にふるえてろ』の冒頭は、出社前のカフェの店内で地下アイドル風金髪美人ウェイトレスの髪を愛撫しながらヨシカが"イチ"への想いを言い聞かせている場面から始まる。ヨシカはカフェの店員、公園で釣りをしているおじさん、変な髪型のコンビニ店員、車掌、バスで隣に座るおばさんに自分の想いを語りながら会社に向かう。

 この後も映画前半で繰り返される光景だが、実はこの冒頭のシーンはすでにヨシカの妄想の中である。他人に声をかける勇気がないヨシカは通りすがりに見かけるちょっと気になる人を脳内で勝手に知り合いにして、自分の話を語り聞かせる妄想をしていただけだったことが、映画中盤で明かされる。

 冒頭の時点で観客はヨシカが一方的にモブに話しかける場面にうすうす違和感を持ちながらも、これが妄想の世界の中だとは気付かない。

 映画『勝手にふるえてろ』 では、妄想はいつの間にか迷い込まされた現実と紙一重の世界であり自覚的に宣言されることはない。

 小説の読者は冒頭でヨシカが選び取った妄想と、現実に対して吐かれる毒を安心して楽しむことができる。映画の観客はヨシカの妄想世界に違和感を持ちながらも迷い込み、妄想が破られていく悲痛を同じように味わっていく。ギャグシーンが笑えない不気味さを帯びてゆく。

 ヨシカを妄想世界に追い込んでいくのはBGMも鳴らない職場の現実だ。玩具メーカー経理部では無数の女性たちが機械のように電卓を打ち込み、洗面所で唾を吐き出し、光の届かない休憩室でスケジューリングされた睡眠をとる。6時の時計の針のように身体を"イチ"の形に伸ばしたヨシカは"イチ"と過ごした中学時代の夢に逃げるが、その夢もスマホのアラーム画面が光って破れ、再び職場に連れ戻される。

 そこで出会った"ニ"は一方的な好意からヨシカに付きまとい、"イチ"との再会を目論むヨシカのプライベートを侵犯していく。

 映像化されたヨシカが生きる現実はあまりに窮屈な生きづらさに満ちている。原作を超えるこの絶望的な生きづらさは、2017年の社会を反映している。

 終盤、休職を決意したヨシカが「赤の他人に這いつくばらせて平気でてめえのゴミの回収させてる人間が他人に好かれようなんて虫が良すぎたわ」と自分と職場と社会への呪詛をぶちまけるセリフに、この映画が吐き出し続けた現代社会への批判が凝縮されている。

 

 自ら妄想を選び取るオタク女子の強さはそこにはなく、現実の生きづらさから逃げ込まざるを得なかった妄想さえも破壊される、オタク女子の敗北だけが残った。

 ポップな毒は失われ現実の痛みが胸を刺す展開にパンクブーブーが入り込む余地は最早ない。

  原作が映画に変わる7年の月日の間に、パンクブーブーは死んでいた。

勝手にふるえてろ [DVD]

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勝手にふるえてろ (文春文庫)

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オーラル・ヒストリーは『ねほりんぱほりん』他に追い付けるか(大門正克『語る歴史、聞く歴史』)

 話を聞くのが苦手だ。いや話すのも得意ではないが。自分の持っているエピソードのストックを放出するのは欲するところなのだが、他人の話を引きだしたりふくらませたりということをあまり欲せざるような案配なので会話が続かない。質問力、傾聴、絶無。コミュニケーション・バリアフル。

 そうした人間なのでオーラル・ヒストリーや聞き書きなどの学術調査にせよ、ドキュメンタリー番組やバラエティ番組のスタッフにせよ、すべてインタビュアーという人間は尊敬する。この人たちのおかげで自分は安全なままに誰かの人生を感受して笑ったり泣いたり憤ったりできているのである。

 拒絶されるかもしれない危険を冒して他者の人生を引きだす勇気と技術は研究者もテレビスタッフも変わらないはずだが、オーラル・ヒストリーや聞き書きなどの方法への関心が高まる一方でドキュメンタリー番組やバラエティ番組の「調査」は別物扱いされがちな気がする。

 

 幕末維新の回顧録や遠野物語から現在の介護現場での聞き書きによる介護民俗学まで含めて日本の「語る歴史、聞く歴史」の歴史を追った大門正克『語る歴史、聞く歴史』はめちゃ良い本だが、それでも記録映画やラジオ・テレビといった音声・映像メディアの作品や意味は全く触れられていない。

 

語る歴史,聞く歴史――オーラル・ヒストリーの現場から (岩波新書)
 

 

 しかし本来「語る、聞く」という行為との親和性が圧倒的に高いのは文章よりも音声・映像の方なんじゃなかろうか。

 

 『語る歴史、聞く歴史』は日本の聞き取りによる歴史を偉人、政治家、著名人などのエリートを主な対象にして政治、行政、ジャーナリズム、社会運動などの記録に重点を置いたものと、労働者、女性、在日外国人などの抑圧された人々を主な対象にして体験を聞くことに重点を置いたものの2パターンに分ける。

 体験を聞く歴史は「語り手の身体や感情とともに存在」しているため、著者は語り手と聞き手がつくりだす<現場>を重視する。それならばなおのこと、語り手と聞き手の言葉を超えた身体を映し出し視聴者が<現場>を疑似体験できる映像メディアの役割は大きいはずだ。<現場>の再現という点では文字は映像にどうしても勝てない。

 逆に文字で<現場>を叙述する利点というのを考えてみると、「匿名性を維持できる」ことしかないように思える。全て映してしまう映像に対して、文章はどこまでもイメージなので。これは特に抑圧されてきた人々の声を聞くならば大切だろう。

 

 こう考えるとNHKEテレでやってる『ねほりんぱほりん』は人形劇をかませることで「身体や感情」を再現しつつ匿名性の維持にも成功しためちゃくちゃ画期的な番組であることに気付く。「元薬物中毒者」だの「偽装キラキラ女子」だのを社会の病理としてではなくひとつの人生として扱える『ねほりんぱほりん』は日本の「語る歴史、聞く歴史」の最前線にあるに違いない。 

 

ねほりんぱほりん ニンゲンだもの

ねほりんぱほりん ニンゲンだもの

 

(教育テレビ人形劇のノウハウをこんなゲスな番組に投入してしまってめちゃくちゃ怒られてそう)

 

 ドキュメンタリー番組やバラエティ番組は扱う対象の点でも「語る歴史、聞く歴史」の最前線にある。先程の2パターンでは、エリートにせよ抑圧された人々にせよ、何らかの”特別な”経歴を持つ人が聞き取りの対象になっていた。しかし最近のドキュメンタリー・バラエティでは偶然性を企画に取り入れることで”特別でない”人を取り上げることが主流になっている。

 例えばテレ東の『家、ついて行ってイイですか?』やNHKの『ドキュメント72時間』が思い浮かぶ。『家、ついて行って』は終電を逃した状況、『72時間』は街角の場所に最初の視点を置くことで、”特別でない”人(もちろん放送されるのは十分個性的な人が多いが)を取り上げることが可能になっている。

 

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(「家、ついて行ってイイですか?」って、そういうビデオの導入じゃん)

 

こうしたドキュメンタリー番組やバラエティ番組が「語る歴史、聞く歴史」の中でもちゃんと評価されるようになればいいのにな、いいのになと思っている。おれは安全なままに誰かの人生を感受していたいので。

 

GALAC 29年12月号

GALAC 29年12月号

 

  (新型ドキュメンタリー最前線…未読だけど似たようなこともう言われてたら恥ずかしいね)