またまた山田風太郎のこと。
私が初めて触れた風太郎作品は一番メジャーな『甲賀忍法帖』で、その後『戦中派不戦日記』を読んで衝撃を受け、『虫けら日記』『不戦日記』から『復興日記』までの「戦中派日記」にドハマリした。実は『不戦日記』を最初に読んだときは「へー昔の人はえらい筆マメだったんだなあ」くらいにしか思わなかった。それが一年ほどして、古本屋で『不戦日記』の翌年分にあたる『戦中派焼け跡日記』の単行本を見つけて手に取ったのをきっかけに、これはすごいものだぞと思い直して一から読み返した挙句ぶっ飛んだのである。
ちょうど私が風太郎の日記を読み出したのと同じ時期に、河出文庫の日下三蔵編「山田風太郎傑作選」シリーズが『十三角関係』『黒衣の聖母』『赤い蝋人形』などの初期風太郎作品を集めた「推理篇」を刊行していたので、日記と同じ時期に書かれた小説を読もうとそれらにも手を出していった。そうした経緯で手にしたので、もとより探偵小説家としての山田風太郎に興味があったわけではなく、また同時代の江戸川乱歩や横溝正史、高木彬光らの作品もほとんど読んだことがなく、探偵小説についての知識も「戦中派日記」から得たものしかなかった。
そんな状態で読んだ風太郎の探偵小説は、何だか全然つかみどころのない、とても奇妙な小説に思えた。「推理篇」と銘打たれているが、果たしてこれは推理小説なのか? そんな疑問が頭に湧いてくる、それでいてよくわからないままに惹き込まれてしまう不思議な魅力のある物語。少なくとも今まで読んだことのあるミステリーとは毛色の違う何かだった。
それからまた少し勉強して周辺知識をつけ、「推理小説」の前にそれを包含するより広いジャンルとしての「探偵小説」があったことや、当時論争になっていた本格物と変格物の違いなどを多少意識するようになった今、改めて風太郎探偵小説を読み返して抱く印象は、やっぱり「変な小説」だ。
骨なしの軟体動物さながらに鉄格子をすり抜けられる犯人によって密室状況が成立する『蝋人』、自然界の事象の全てを聴き取れる耳の持ち主が登場する『万太郎の耳』、肉体の切断面から新しい肉体を再生させる男の脅威を描いた『万人坑』。
特に目を引くのは、登場人物の並外れた身体能力が謎や動機に関わるこれらの作品だ。もちろん、極度に拡張された身体能力というモチーフは、のちの忍法帖に登場する忍者たちの忍法の多くと通じているのだが、これらの作品では探偵小説という枠組みの中で異能能力者が登場しているのが面白い。
風太郎は日記の中で、探偵小説は「論理の遊戯」であると語る。探偵小説の眼目はその推理性ではなく意外性にあり、読者をだます「ペテン」にあるというのだ。
1949年2月14日の日記では白石潔の評論『探偵小説の郷愁に就て』を一読した感想で、そこで批評されている『永劫回帰』、『万太郎の耳』の「論理の遊戯」を説明している。『万太郎の耳』のような異能系?小説も、風太郎は探偵小説のロジックを意識して書いていたようだ。
余が作品の批評に就ていえば、少なからずピント狂ったところあり(ピント狂っているは全部にわたりおれども)。
例えば余の代表作を「永劫回帰」とせるが如き。この思想は戦後の新風なりといい居れども、これツァラトゥストラより失敬せるものなることを、読売新聞社の部長ともある人が知らざるにや。若しあの思想が余の独創ならば、いかで十七枚の短篇に吐かんや。延々数千枚の長篇として、全世界を驚倒せしむるに足るべし。また「万太郎の耳」を死は恋より強しをテーマとする作なりとするが如き、若し然りとせば、世にこれほどトリエなき作品あらじ、死の曲は恋の曲にひとし。このテーマなればこそ、探偵小説的論理の遊戯となりしにあらずや。*1
『万太郎の耳』は、自然界のすべての営みを「音楽」として聴き取る特殊な「耳」を持った男が、〈エロスとタナトス〉という表裏一体であるシグナルを聴き分けられなかったがために破滅する物語*2だ。
死の曲=恋の曲という(フロイト的な?)テーマがまずあり、それを聴くことができる人間がいたと仮定して、その論理の行き着く意外な結末を描くところにこの小説の「論理の遊戯」がある。
ところで、死=恋といったある論理を突き詰めたときに起こる意外な結末で読者をペテンにかけるこの手法は、『甲賀忍法帖』で描かれる忍者たちの死闘にも生かされていると感じるのは私だけだろうか。
風太郎忍法帖の偉大さは、複数の異能者によるトーナメント式バトルのフォーマットを作ったところにあると俗に言われる*3が、私見では『甲賀忍法帖』のバトルはトーナメントというよりバトルロイヤルである。ドラゴンボールではなくハンターハンターである。つまり、最強のヒーローがいるのではなく、AはBに勝つが、BはCに強く、CはAにだけは負けないという能力どうしのかみ合わせが何よりも面白く、それ故にどちらが勝つかわからないワクワクを生み出していると考える。
そしてこの能力バトルの妙は、ある能力とある能力がぶつかったときの論理的帰結が迎える意外な展開にあるわけで、ここにはまさしく風太郎が言うところの探偵小説的論理の遊戯が駆使されているとはいえないだろうか。
『甲賀忍法帖』でいうと、透明人間vs血の霧を吹く忍者、吸血能力vs皮膚を硬化する能力などの、一見どちらが勝つか想像できない組み合わせの戦いが、能力の相性により意外な結末を迎えるからアツいのだ。最強に思われた不死の能力を破ることができたのが、最も無力な姫の力だったという展開にも風太郎流の「ペテン」が感じられる。最後に生き残った弦之介vs朧の瞳術対決の結末も、ロミオとジュリエットが忍者になって異能バトルを繰り広げたらという仮定の論理的帰結だったのかもしれないしそうじゃないかもしれない。
山田風太郎の初期作品のうち『万太郎の耳』などの異能系?探偵小説は、身体能力の拡張というモチーフが数々の忍法の原型になったことに加えて、探偵小説的論理の遊戯という手法の上でも、のちの忍法帖の系譜につながる重要な作品だった。もちろんこの頃の風太郎はどの探偵小説でも同じような「論理の遊戯」を目指していただろうし、「変な小説」ばかり書いていた下積み時代が忍法帖の大ヒットにつながったんだなあと思うと感慨深い。
もっとも、割としっかり推理をしている『妖異金瓶梅』や『十三角関係』、忍法帖だって「変な小説」ではあると思うけれど。