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とろろ豆腐百珍

朧夜や誰れを主と言問はむ

「おかげサマー」考―広瀬と前田が出会うとき―

音楽

 もう12月、「冬が寒くって本当に良かった」とか言い出した輩を燃やして暖を取りたい季節になってきた。

 しかし人間とは過ぎ去った季節を懐かしむもの。ここは敢えて夏を懐かしむしかない。TUBEを聴くしかない。という訳で今年の夏に出たTUBEの30周年記念アルバム「Your TUBE+My TUBE」を今さら借りてきた。

Your TUBE + My TUBE

Your TUBE + My TUBE

 

 

 「Your TUBE」と「My TUBE」の二枚構成になっているこのアルバム、目玉は何といっても 15組のアーティストが書き下ろした新曲をTUBEが歌うYour TUBEだろう。玉置浩二奥田民生といった大御所の作品や、作詞TAKURO(GRAY)作曲松本(B'z)、作詞大黒摩季作曲織田哲郎の共作まであって実に豪華なラインナップになっている。

 では早速収録順に聴いてみよう。一曲目は作詞・作曲広瀬香美の「おかげサマー」で・・・・・・ん?

広瀬香美

そして流れ出したのは馬鹿に陽気なサックスを吹き鳴らすイントロ。一瞬己の目を(いや耳を)疑ったが、なんとあの冬の女王広瀬香美TUBEに曲を提供していたのだ。

 この「おかげサマー」曲の方はイントロから伺えるとおりハイテンションで唐突に高音を張り上げる香美イズム全開の作品になっているのだが、それに輪をかけて詞の方がすごいことになっている。

 全体を通して見ると陽気なサラリーマンが周囲の仲間に支えられながらがんばるという内容になっていて、30周年を迎えたTUBEに対する応援メッセージとしてそれはそれでいいのだが、注目していただきたいのはそのサラリーマンの”がんばり”っぷりなのである。

 まず一番のAメロ、主人公の男は大事な会議の日に遅刻しそうになるのだが

ヤな予感して飛び起きた アラーム悲鳴あげてた

ドッと家を飛び出した でも遅刻は決定だ ヤッベェー

 全くヤバさを感じられない。

優しいあの子にメールした 会議資料お願いします

オッケー すぐ返事が来た

今日のランチ高くつくっぜ ベイベー

  イラッ!ここのところ、文字にするとそれほどでもないですが、実際の歌い方を聴くと相当イラッとします。しかしこの”ダメ親父”感は二番に入ってさらなる進化をみせる。

上司にこっ酷くやられた 絶望的に落ちてた

ランチに行こうあの子から 甘い声で誘われた いいねー

やっぱ俺にホレてるでしょー 永遠は偶然の産物

アクシデントもチャンスに変えて 起死回生があるからやめられられない

 はい、ここまで読んだOLの皆さんは「ああ、職場にこういうおっさんいるよね・・・」と思ったのではないでしょうか。そう、この歌に出てくる”がんばる”サラリーマンは若手にウザがられそうなちょっと面倒くさい中年男性なのだ。バブル時代のイケイケ感が今でも通用してると思ってそうな、飲み会に参加するのは当然の義務だと思ってそうな、最近の新人は元気が足りないまずは挨拶からだオハヨウ声出してけとか思ってそうな、若い頃の文化を捨てられないまま時代の変化に取り残され、置いてけぼりにされたことにも気づかずに道化を演じている少し悲しいおっさんだ。

 そしてそれはTUBEに対する批判的な見方からのメタファーにもなっている。広瀬香美がそこまで計算してこの楽曲を作ったのならすごいと思うと同時に底意地の悪さを感じるが、恐らく彼女はこんな受け取られ方をするとは意識していなかったにちがいない。TUBEが歌うならこんな感じだろうというのを想像していつも通りに作ったのだろう。その広瀬の曲と詞を前田亘輝が歌ったとき、曲の明るさと前田の故意におっさんを強調するような歌い方、そして聴く側のTUBE・広瀬に対して抱くイメージ(バブリー、夏/冬の枠から飛躍できない色物)が作用しあって、滑稽なまでに陽気で一つずらせば皮肉になりかねない曲が生まれたのだと思う。

広瀬香美とバブルについてはこちらのブログが興味深い考察をされていた

バブル文化って何だったのか - arwtw

 一点の曇りもない秋の青空は不安を秘め、底抜けの明るさは哀愁を感じさせる。広瀬香美前田亘輝の出会いもまたかくあるものなのか。 

Your TUBE + My TUBE(初回生産限定盤B)(DVD付)

Your TUBE + My TUBE(初回生産限定盤B)(DVD付)

 

 (初回生産版。パッケージはお中元をイメージしたらしい)

 ちねみに僕は広瀬香美TUBEも好きだし「おかげサマー」も嫌いじゃないです。YourTUBEだとクレイジーケンバンド横山の「タイムトンネル」と玉置浩二の「スコール」が良かった。

二人の「ユリア…永遠に」

音楽

 北斗の拳の劇中でケンシロウは数多くの強敵(とも)と拳を交えた。最大の強敵は言うまでもなくなくラオウだが、僕が一番好きなのはケンシロウ最初の強敵シンだ。

 南斗孤鷲拳の使い手にして、殉星の男シン。ユリアへの報われぬ愛のために生きた彼の生き様は哀しく切ない。物語序盤で退場するキャラでありながらトキやレイに次ぐ人気を獲得した彼に対して、アニメのスタッフもKING軍の拡大、反乱軍相手の大立ち回り、侍女への気遣いなどのオリジナル展開を挟むことで優遇していた。

 そのアニメ第一期のエンディングテーマ、クリスタルキングの「ユリア…永遠に」(作詞、野中英俊・田中昌之)は恋人ユリアを想い荒野を往くケンシロウの心情を歌った曲だ。少なくともテレビサイズではそうとしか解釈できない。しかし、僕はこの曲はケンシロウと、そしてシン二人それぞれのユリアへの想いを表した曲だと思っている。他のサイトでも考察されているのでどこかで聞いたことがあるかもしれないが、ここにも書かせてもらおう。

 

 北斗の拳をこれから読む人にはネタバレになってしまうが、一応劇中での三人の関係を解説しておこう。(詳しく知りたければWikipediaなりに飛ぶべし)

 世界が核の炎に包まれる前ケンシロウとシンの二人は友人だった。シンは密かにユリアに恋心を抱いていたが、ユリアは親友ケンシロウの許婚、そのままならば叶うはずのない恋だった。だが、核戦争が勃発し世紀末の世が到来すると、弟ケンシロウに恨みを抱く兄ジャギはシンにむかって囁く「今は悪魔が微笑む時代だ」と。こうしてシンは暴徒を引き連れてユリアとともに旅立とうとしていたケンシロウを強襲し、ケンシロウの胸に七つの傷を付け、ユリアを強奪して去っていった。(このときユリアはシンの愛の告白に対して「あなたにそう思われていると知っただけで死にたくなります」とキツすぎる暴言を放つ。シンの想いはどこまでも報われない)シンは去り際倒れたケンシロウに向かって言い放つ「お前と俺の致命的な差、それは執念だ」と。

 その後シンはユリアにこの世のすべてを与えるために暴徒を組織して各地を略奪、自らKINGを名乗り関東一円を支配した。奴隷を働かせてユリアのためだけの都サザンクロスを作らせるが、それでもユリアの心は動くことはなかった。そんな矢先、復讐のために荒野をさまよっていたケンシロウがシンのもとにやってくる。一年前とは逆にケンシロウの前に歯が立たないシンの拳。シンの教えた執念がケンシロウを変えていた。ならばその執念の源を断つまでと、シンはユリアの胸に拳を突き入れる。しかし、それがケンシロウの逆鱗に触れ、執念を超えた怒りでケンシロウはついにシンの秘孔を突いた。

 闘いが終わり、倒れたユリアのもとに駆け寄るケンシロウ。しかしそこにあったのは愛するユリアではなく精巧に作られた人形だった。自分のために人々が苦しむのが耐えられないと、ユリアは自ら居城から身を投げたのだとシンは語る。そして彼もまた、ケンシロウの拳にかかって死ぬのを拒み、居城から燃え盛るサザンクロスに身を投げ自らの手で死を選んだ。愛するユリアの名を叫びながら。(実はこのときユリアは生きていた。ラオウの軍勢がサザンクロスに迫っていることを知ったシンはユリアを南斗五車星に預け、自らは敢えてユリア殺しの汚名を被ってケンシロウとの決戦に臨んでいた)

 すべてが終わって、シンの亡骸を葬るケンシロウは「どうしてそこまでしてやるのか」と聞かれてこう答えた。「同じ女を愛した男だから」

 

 と、ここまでの流れを頭に入れて「ユリア…永遠に」の歌詞を見てみると・・・

1.時間の中で生きてる 孤独な囁き

  手探りの中覚えた ぬくもりと淋しさ

  まぶしく輝く お前の身体抱き寄せ…今

  そうさ 愛する人には 時代(とき)は流れ

  徨う心に 明日は見えない

  エンディング(この数枚の止め絵を切り替えるだけの手抜きEDは初めて見たとき笑ってしまった)で流れた一番は、ユリアを求めて世紀末の荒野をさまようケンシロウの歌といって間違いない。ケンが荒野で行き倒れていたところから第一話がはじまるアニメ第一期にふさわしいエンディングテーマだ。

2.光の中で揺れてる お前の微笑み

  足音だけを残して 闇に消えるシルエット

  満たされはばたき 女神が背中向けて…今

  だから 今日より 明日より 愛が欲しい

  夢より愛する 君が欲しい 全てが……

  「満たされはばたき」というのは、すべてを得ながら宙に身を投げたユリアのことだろう。だから「女神が背中向け」るのだ。最初のパートは失ったユリアの面影を思い浮かべていることがわかる。「今日より明日より愛が欲しい」と叫ぶ姿は満たされぬ愛にすべてを捧げる彼の哀しい宿命を感じさせて悲痛だ。

 一番はユリアの姿を求めて荒野をさまようケンシロウの姿、二番は愛を得られぬままユリアを失い、ケンシロウがやってくるのを一人孤独に待つシンの姿を描いているのではないだろうか。

 ぜひそんな二人の姿を思い浮かべながら「ユリア…永遠に」を聴いてみていただきたい。これまでよりも一層切ないメロディが胸に沁みてくるだろう。

 

 

ユリア・・・永遠に

ユリア・・・永遠に

 

 

タレイランとフーシェ、あるいは『タレイラン評伝』と『ジェゼフ・フーシェ』

歴史

 フランス史に燦然と輝く英雄ナポレオンの時代を語る際、タレイランフーシェの二人は憎むべき変節漢として軽蔑されるのが常である。革命の時代から所属する党派を次々と乗り換え、その都度地位を上昇させていった点、同時代の人々からの悪評を全く意に介していなかった点、さらに、互いに忌み嫌いながらもナポレオンとその天才を利用し合わなければならなかった点で二人の陰謀家は共通している。そしてナポレオンとその栄光に最後のとどめを刺したのもこの二人だった。一方で、伝統ある貴族の家の出で、ユーモアと話術の達人として有名で、数多くの愛人と私生児を作ったタレイランに対して、船乗りの家に生まれ、不気味な印象を与える不愛想さで知られ、家庭では妻に頭の上がらない善良な夫であったフーシェといったように、二人は対照的な面も持ち合わせていた。

 先日古本屋で絶版になっている中公文庫の『タレイラン評伝』を手に入れたので、ツヴァイクの『ジョゼフ・フーシェ』と並べて、面白かった点をいくつか書き連ねてみたい。(もちろん最近の論文も研究動向も把握していない素人の考察に過ぎないので、上記の二つの伝記に登場する”タレイラン”と”フーシェ”というキャラクターに関する読み物として受け取っていただければ)

 

タレイラン評伝 上巻 (中公文庫 D 23-2)

タレイラン評伝 上巻 (中公文庫 D 23-2)

 

 (著者はチャーチルの側近として外務大臣を務めた人なので英仏協調路線のタレイランを過大評価)

 

ジョゼフ・フーシェ―ある政治的人間の肖像 (岩波文庫 赤 437-4)

ジョゼフ・フーシェ―ある政治的人間の肖像 (岩波文庫 赤 437-4)

 

 中曽根元総理が愛読書の一つにあげてたらしいが、これを愛読書と公言する政治家は嫌だなあ・・・)

 

 タレイランフーシェは最後にナポレオンを見放したという点で共通しているので、そこにばかり注目してセットで語られるが、ナポレオン時代に至るまでの革命時代の二人の経歴には大分差がある。

①革命以前

 二人とも1789年の革命以前には教会でカトリックの教えを学んでいた。ただし家柄のおかげでタレイランはオータンの司教という高位にあったのに対して、フーシェは正式な僧籍にも入らず物理学を教える一介の僧侶教師に過ぎなかった。

 面白いのはこの若い頃に、タレイランはサロンの人気者としてパリの上流人士と交わり、ミラボーや後の英国首相のピットといった人々と知り合っているのに対し、フーシェは工兵大尉だったカルノーや弁護士時代のロベスピエールと友情を結んでいることだ。すでにこの頃からフイヤン派ジャコバン派という二人が後に属する党派の面々と親しくなっていたことがわかる。

②革命勃発~国王処刑

 革命が起こると二人は政治の世界に足を踏み入れたが、その際にタレイランは司教でありながら教会財産の国有化を提案し、教会を議会の管理下に置く「僧侶の市民憲法」に宣誓したうえ、バチカンに無断で勝手に新たな司教を叙任してしまった。これが原因となってタレイランバチカンから破門されてしまう。

 フーシェは平民身分で代議士に選出された当初は議会で多数を占める穏健共和派として活動していたが、1793年1月のルイ16世の裁判の際に死刑に票を投ずることで過激共和主義者、すなわちジャコバン党に鞍替えした。

暴君の数々の罪状は明白となっており、万人をして憤懣措く能わざらしむるものがある。彼の首にしてもし即刻刃のもとに落ちなければ、泥棒や人殺しどもが一斉に頭をもたげて横行するもまたやむを得まい。(中略)時代はわれわれにくみし、地球上の全国王に反するものである。

 投票の前日には友人に向かって熱心に国王助命の演説を行っていた男が、翌日には国王死刑に票を投じ、投票が終わった次の日にはもうこれほど激烈な宣言文をばら撒いていたというのは鮮やかといいたくなるほどの転身だ。ツヴァイクはこの時のフーシェを「もし助命に投票すれば、間違った党に、自分の決してくみしたくないただ一つの党、少数党に属するであろうということを見て取っていた」と語り、「彼の知っている党はただ一つ、これまでも忠実だったし、死ぬまで忠実であることをやめない党、すなわち有勢な党、多数党である」と評価している。ちなみにルイ16世の処刑が一票差で決定されたという誤解があるが、このフーシェの鮮やかな転身が、裏切り者の一票で国王の命運が決まったという劇的な展開を人々に想像させて俗説を生んだのかもしれない。ともかく、ジャコバン派になったフーシェは総督として恐怖政治の時代に地方の富豪やキリスト教会を徹底的に攻撃しはじめた。革命前は僧侶だった人間が十字架やキリスト磔刑像を破壊してまわったのだ。タレイランフーシェも信心深さとは無縁の人だった。

ジャコバン派独裁時代

 ジャコバン派が権力を握り、貴族階級への弾圧が強まると、タレイランはさっさとイギリスに亡命してしまった。そして他の亡命貴族とパーティを開いて貴婦人に手を出し、イギリスに居づらくなると今度はアメリカに渡って賭博で財産を築いて遊び暮らしていた。

 一方フーシェは俳優上がりの同僚デルボアとともに、反乱を起こしたフランス第二の都市リヨンに対する破壊命令を忠実にこなし、ギロチンによる処刑を「あまりにまだるっこい」として大砲を使った虐殺や自ら墓穴を掘らせた後の銃殺などの手段を使って2000人近くを処刑した。

 ところがジャコバン派内での内部粛清の嵐の末に唯一人者になったロベスピエールによってこの虐殺が行き過ぎだとして批判されることになる。被告人としてパリに呼び戻されたフーシェはかつての親友に議会で勝てないと悟るや地下に潜行して、同じように地方から呼び戻された派遣議員(バラス、タリアン、デルボアなど)や公安委員会内の穏健派(カルノーなど)といったロベスピエールの影に怯える人々を糾合してクーデターを計画、熱月9日ついにロベスピエールを打倒するに至る。フーシェは絶体絶命の窮地に追いやられた状態から、逆に恐怖の裁判官ロべスピエールをギロチン送りにしたのであった。

 面白いのはクーデター前日の熱月8日と運命の熱月9日の両日を欠席して現場に居合わせなかった議員が一人だけいたことだ。そしてその議員こそ陰謀の首魁であるフーシェその人だった。ツヴァイクは「休息し欠席してもいいのだ。なぜなら彼の仕事は仕上がってしまっており、網の目も結んであり、あまりに強くあまりに危険な人物をもはや生きたまま逃がさないという決意を、とうとう多数の者も固めてしまったからである」と書いている。この徹底したまでに裏で糸を引く姿勢には魅力さえ感じてしまう。

「君もリストに載っていますよ」

「君はこんど追放される番ですね」

フーシェが他の議員に耳打ちしてまわる場面。相棒の小野田官房長かよ)

④総裁政府時代

 ロベスピエールを打倒して権力を握ったテルミドリアンたちだったが、もともとが敵対者に対する恐怖によって結びついていただけの集団のため、すぐに仲間割れを起こすことになる。リヨンの虐殺の責任を全て同僚のデルボアに押しつける形でしばらくは地位を保っていたフーシェも一時失脚することになった。一方で時代の旗向きが変ったことを察したタレイランはアメリカからデンマーク経由でフランスへと舞い戻ってきた。

 1795年に憲法が改正されて五人の総裁からなる総裁政府が発足すると、その筆頭の地位にバラスが就いた。この「生涯ただ賄賂を取るために生きていたような男」「悪徳の士」と呼ばれた男によって、タレイランフーシェ、ナポレオンという三人が舞台に上げられることになる。まず1796年にバラスは愛人のジョゼフィーヌをかつての副官ナポレオンに妻として与え、イタリア方面軍総司令官に任命した。

 1797年になって王党派が力を持ち始めるとバラスはタレイランを総裁政府の外務大臣に就任させる。これはスタール夫人の仲立ちによるものだが、バラスは回顧録でタレイランは金に汚い男で本当は大臣にしたくなかったと主張する一方で、タレイランは回顧録でスタール夫人に説得されてしょうがなくバラスに会って大臣になったと言っている。バラスもタレイランもこの時期に各国の要人から収賄を受けまくることで儲けているので、金に汚いどうし同族嫌悪といったところか。またバラスは同じころにフーシェを今でいう警視総監の地位に抜擢している。そしてフーシェの情報網とタレイランの人脈を利用することで王党派を追い落とし、政府の延命に成功した。

 バラスのおかげで総裁政府の要職についたタレイランだったが、腐敗によってバラスと総裁政府が信頼を完全に失ったと見るや、国民の信頼を得た政府を作るために総裁政府を内部から破壊しようと画策をはじめた。まず総裁の改選を利用して議会を動かし市民に人気のあるシェイエスを総裁の一員に加え、バラスとの二頭体制にすることで、残り三人の総裁を無力化した。この時期、政府の混乱からジャコバン派が再び活発になってきていたためシェイエスはフーシェを警察大臣に昇進させている。フーシェはかつての同志であるジャコバン派のクラブを躊躇うことなく封鎖して彼らを解散させてしまった。

 政府内部の混乱を聞きつけ、軍隊を放置してナポレオンがエジプトから帰国すると、タレイランはクーデターのための武力を欲するシェイエスとナポレオンの間を仲介して陰謀を練り、霜月18日のクーデターを成功させた。バラスらは追放され、総裁政府は瓦解して、統領政府が成立した。このクーデター当日の夜に、タレイランは前もって招待されていた夫人の家で優雅に晩餐を楽しんでいたという。この余裕のある態度は、テルミドールのクーデターの際のフーシェを思い出させる。彼らにとって陰謀は実行に移される前に完成しているものなのだろうか。

 

 統領政府の成立後はナポレオンが第一統領、終身統領として独裁を行い、フーシェの提案によって元老院でナポレオンを皇帝とすることが可決されて第一帝政が始まるのだが、こうして見てきてわかるのが、タレイランフーシェの粛清の危機に対処するスタンスの差だろう。今までは奉じる主義を状況に応じて変えるだけだったフーシェも、ロベスピエールによって絶体絶命の危機に追いやられると、直接反撃に出てこれを打倒している。一方のタレイランはそもそも粛清の手がのびてくる前にさっさと逃げ出してしまっているのだ。

 ここに二人の権力欲の差が伺えるようで面白い。常に権力の座の近くにいたいフーシェには逃げるという選択肢がなかったのではないか。だからこそロベスピエールを倒すことはフーシェにしかできなかったのではないか。息の長さ(フーシェ復古王政の初期1915年に失脚するが、タレイランは1930年の七月革命にも一枚噛んでいる)ではタレイランの勝ちだが、パリに残っていてもタレイランロベスピエールを倒すことはできなかっただろう。

 また、『タレイラン評伝』を読んでいて感じるのは、フーシェの転身が完全に権力欲と自己保身のためなのに対して、タレイランのそれは自らの政策を実行するための必要に迫られてのものだったのではないだろうかということだ。彼がフランスのために最上と考えていたのは常に英仏の協調とヨーロッパ各国の勢力均衡を目指すことで、そのために、政府の信頼が無くて外交交渉が困難ならば総裁政府を覆し、皇帝の野心が度を越して勢力均衡を不可能にするならば皇帝を売り、七月革命政権が国際社会で認められるためなら75の老体をおしてロンドンに赴くといった具合に。ただ、それに伴って二次的に得られる利益だけはいつもありがたくポケットにおさめてきたから非難されるのだろう。

 タレイランに捧げられた各方面からの評価を並べるだけで面白い。

「ペリゴールの神父は、金で魂を売ろうとしている。が、それもいいだろう。どうせ、糞と金とを取り引きする奴だから」(ミラボー

「実に不愉快な顔をした人物で、女の腐ったような悪だくみを致しますので、性質も心がけもあまり素直でないと申し上げてよいかと存じます」(スタッフォード夫人)

「神に背いた人間で、偽善家で、その他ありとあらゆる悪名にふさわしい」(ウィリアム・コベット)

「絹の靴下に糞の詰め物をしたようなものだ」(ナポレオン)

 一方で、最初は世間の評判どおりに嫌っていたのに、何度か会って話しをしているうちにすっかり虜になってしまった女性が伝記の中に何人も出てくる。天性のナンパ師である。

 

 タレイランのヨーロッパ各国の勢力均衡を目指す外交方針はメッテルニヒビスマルクらに引き継がれ、フーシェが創設した秘密警察システムも米・英・独・露各国に取り入れられていった。

 タレイランには一見して飄々としているが、実は芯の通った生き様というかっこよさがあり、フーシェの全てのものを出し抜いていくしびれるように天才的なクレバーさも魅力に感じてしまう。

 英雄に対して裏切り者、変節漢というのはとかく悪役として描かれてしまうものだが、彼らもまた時代の主役であり、その視点に立つことで新しい世界が見えてくるかもしれない。と、いい感じに締めたが、結局僕がニッチな脇役が好きってだけです。(タレイランフーシェをニッチと言ったらフランス史マニアから怒られそうだが)

珈琲店タレーランの事件簿 また会えたなら、あなたの淹れた珈琲を (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)

珈琲店タレーランの事件簿 また会えたなら、あなたの淹れた珈琲を (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)

 

 (最近はこちらのタレーランの方が有名)

京博琳派展

日常

 10月10日から京都国立博物館ではじまった特別展覧会「琳派 京を彩る」に参戦してきた。今年2015年は琳派のプロデューサー本阿弥光悦が洛北鷹峯に居を構えてから400年ということで、それを記念した展覧会。

 

 三連休の中日の14時頃に行ったのだが、入り口の説明では入場制限で40分ほど並ぶとのこと。去年の鳥獣戯画展の120分待ちに比べれば大したことないが、この間にパンフレットを読みこむなり中庭の「考える人」をぼんやり眺めるなりして過ごしましょう。体感では20分経たないくらいで中へ。

 展示順は光悦と宗達→光琳→抱一→(同時代の仏像コレクション)→乾山・抱一・其一など、と主に時代順になっていた。ちなみに仏像の解説をよく読むと「気の抜けた立ち方」「全く怒りを感じないポーズ」「頭の頂上から後頭部にかけて髪が薄くなっている」とボロクソで面白い。

 一番の見どころはやはり俵屋宗達尾形光琳酒井抱一の三人の風神雷神図が屏風が一堂に会することだろう。抱一は27日からということでまだ届いていないが、宗達・光琳の二作の前には人だかりができていた。

 展示前期は初期の作品が中心なのか僕の好きな酒井抱一の作品はそんなに多くなかったが、宗達の風神雷神の裏に描かれた夏秋草図屏風や八橋図屏風などの傑作揃いだった。光琳の作品を一点ずつノートに模写した光琳百図など抱一の光琳への敬慕が伝わる物も。四季花鳥図巻のカマキリや鈴虫といった小さきものたちはいつ見ても良いものですぞ。

 へうげ好きとしては光悦作の茶碗「雨雲」や「乙御前」が見られたのも満足。

 

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 (画像がバカでかくて申し訳ない。へうげものの若旦那こと俵屋宗達

 

 琳派の変わったところは、画業は狩野派や土佐派など流派によって代々受け継がれていくのが当たり前だった時代に(もっとも画業だけではなく江戸時代においてはほとんどのものがそうだが)、光琳が宗達を意識して技を学び、抱一が100年前の光琳を師と仰ぐという形で後継者が生まれてきたことだ。それは当人が世を去って後も影響を与え続ける優れた作品と、その作品からインスピレーションを受けて自らの画に取り入れるだけの感受性を持った作者が存在するということだろう。

 現代だと西村賢太が大正時代の藤澤淸造の没後弟子を称するようなものだろうか。時代も環境も超えて受け継がれるもの。

 

苦役列車 (新潮文庫)

苦役列車 (新潮文庫)

 

 (どうしようもないクズの日常が笑えてしまうのはなぜなのか)

 

 

ジェノアはジェノヴァの英語読み

日常

 おととい、たぶん大丈夫なブログの坂津と二人で石澄滝という滝を目指して近所の山奥を冒険してきた。そう、あれはまさに冒険だった・・・・・。

 進むほどに細くなっていく山道、踏み出すたびに揺れる丸太橋、不思議な液体の流れ出る洞窟、朽ちた小屋、謎の祠、存在しないはずの寺・・・・・・。まさか大学生にもなってこんな”ぼく夏”体験ができるなんて。

 

tabunsakatsu.hatenablog.com

 詳しくはこちらをご覧いただきたい。

 

 さて、翌日は筋肉痛で外に出られずずっと家でウイイレをしていた。2016などではなくまだ2011のマスターリーグを飽きもせずプレイしている。デフォルトメンバースタートでやるのであえて全く知らないチームをということでセリエAジェノアを選択。

 と、ここで気づいたことを一つ。ジェノアのホーム、ゲームオリジナルのヴィルマリースタジアム・・・・・・これすごい見辛くないか? 昼の試合だと右サイド側だけ屋根? の陰になってて暗い。見えない。選手の見分けがつかない。特にこちらが黒、相手が緑のユニフォームとかだと全く区別ができなくてイライラする。

 「ヴィルマリースタジアム 見づらい」で検索してもそれに触れてるサイトが出てこないのでここに記す。

 ウイイレ2011のヴィルマリースタジアムは地雷!

 

堕落論(坂口安吾)

坂口安吾の文は悪文です。ただしただ美しいだけの美文と違って安吾にしか書きえない悪文です」

 坂口安吾の「日本文化私観」を扱うときに高校の先生がそう言った。自称アマチュア最強の元キックボクサーで「教科書に載っている小説なんてクソです」が口癖だったその先生が珍しく称賛したのが印象に残っていたのか、大学1年の夏休みに安吾白痴・二流の人 (角川文庫)を手に取った。そして冒頭の「風博士」にガツン、と圧倒され、すっかり安吾のファンになってしまったのだ。

 となれば、小説だけでなくエッセイにも手を出すのは必然で、すぐに同じく角川文庫から出ていた『堕落論』も読んだ。夏のフェアにもなってたし。

 

堕落論 (角川文庫)

堕落論 (角川文庫)

 

(「堕落論」以外にも「青春論」「戯作者文学論」などエッセイ13編が収録)

 これが『白痴・二流の人』以上の衝撃で、特にはじめて全文を読んだ「日本文化私観」に伝統をありがたがるばかりの自分に痛打を加えられ「青春論」を前に、高校生~大学生特有の世の中をナメるように斜に構えて生きていた自分がすっかり恥ずかしくなってしまった。

 それから一年。安吾の他の作品も読んだ。太宰も織田作も、志賀直哉も読んだ。そして今日、時間があって再び『堕落論』を読み返した。

 

 まあ感想としては「やっぱ安吾好きだ!」なわけで。

 

 個々のエッセイでは「日本文化私観」「青春論」は相変わらず身につまされてよかったのだが、完成した「女体」を読み、矢田津世子との恋を描いた「二十七歳」「三十歳」を経たからか「戯作者文学論」における安吾の苦闘がより克明に伝わってきた。

 そしていくつかのエッセイで語られる、戯作性(=面白さ)を排除してマジメな態度なのがホンモノの思想だと信じている、という志賀直哉に代表される純文学界に対する批判など、まさに幾つかの小説を読んで僕が感じていたモヤモヤそのもので大いに共感した。

 13編の中でも一番好きなのは自殺した太宰治について書いた「不良少年とキリスト」だ。太宰の自殺はフツカヨイに過ぎないと皮肉っているが、その皮肉や批判から”どうして死んじまったんだ”と言わんばかりの切なさがにじみ出ている。冒頭の歯痛への嘆きとの落差もあって最後の「学問は限度の発見だ。私は、そのために戦う」という宣言が悲痛に感じる。

 

 歯が痛い、などということは、目下、歯が痛い人間以外は誰も同感してくれないのである。人間ボートク! と怒ったって、歯痛に対する不同感が人間ボートクかね。然らば、歯痛ボートク。いいじゃないですか。歯痛ぐらい。やれやれ。歯は、そんなものでしたか。新発見。

 (名言。ここから真面目な話に持っていくのがすごい)

世界に一つだけのあらすじ

 ぷらっと入った本屋で何気なく本を選ぶとき、みなさんは何を基準に手に取る一冊を選ぶだろうか。お気に入りの作者の名前? きれいな装丁? 値段? どこに目を付けるかは人それぞれだが、こと文庫本の場合多くの人は棚から抜き出した一冊を手の上でひっくり返して裏表紙に目をやるのではないだろうか。

 文庫本の裏表紙、そうそこに書かれているのは”あらすじ”である。岩波文庫など一部を除いて大抵の文庫本の裏表紙には五~十数行の文章でその本のあらすじが紹介されている。時に”あらすじ”には内容だけでなく、受賞歴だったり著者の略歴だったり印象的なフレーズだったりが盛り込まれている。

 ”あらすじ”は本の中で唯一、作者ではなく出版社が書き込むことを許された文章であり、多くの読者予備軍がまず目にする文章。裏表紙は社運を賭けた売り上げ競争の最前線であり、わずか数行の文章によって競い合う熾烈なバトルフィールドなのだ!

 

一九五〇年七月二日、「国宝・金閣寺焼失。放火犯人は寺の青年僧」という衝撃のニュースが世人の耳目を驚かせた。この事件の陰に潜められた若い学僧の悩み――ハンディを背負った宿命の子の、生への消しがたい呪いと、それゆえに金閣の美の魔力に魂を奪われ、ついには幻想と心中するにいたった悲劇・・・・・・。31歳の鬼才三島が全青春の決算として告白体の名文に綴った不朽の金字塔。

 

 これは三島由紀夫金閣寺 (新潮文庫)の裏表紙に書かれた”あらすじ”である。

 月日を最初に持ってくることでニュース記事のように金閣寺焼失という実際の現実社会の事件との関連を提示し、続く文で犯人の学僧が主人公であることと、彼が障害を持って生まれ、生を呪い、金閣の美にとりつかれて放火に至るというストーリーの経緯をたどり、最後に作者が有名な三島由紀夫であることをアピールしつつ不朽の金字塔という殺し文句で名作認定する。

 実に模範的な”あらすじ”である。「ついには幻想と心中するにいたった悲劇・・・・・・」なんて言われたらそりゃどんな悲劇なのか気になるってものだ。しかもなんたってあの三島由紀夫の「不朽の金字塔」なんだから面白いに違いない。

 どうです? レジに並びたくなりませんか?

 

「君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年になる」――15歳の誕生日がやってきたとき、僕は家を出て遠くの知らない街に行き、小さな図書館の片隅で暮らすようになった。家を出るときに父の書斎から持ちだしたのは、現金だけじゃない。古いライター、折り畳み式のナイフ、ポケット・ライト、濃いスカイブルーのレヴォのサングラス。小さいころの姉と僕が二人並んでうつった写真・・・・・・。

 

 これは誰の作品か、言わなくてもわかるでしょう。そう、村上春樹海辺のカフカ (上) (新潮文庫)です。この”あらすじ”を見せるだけで読んだことのない人にも村上春樹の作品だと伝わるような、見事な”あらすじ”だ。

 このように内容を説明するというよりも、本文の文体をマネることで作品の雰囲気を伝えることに徹している”あらすじ”もある。

 

 ぴゅんという音を引いて飛来した紙片が代官・黒田玄蕃の手に突き刺さる。

「ぐぬっ! 何奴!」

 紙片に輝く白黒の帯は、裏稼業の印・書籍JANコード

「この紙・・・・・・裏表師か!」

「ご明察だ黒田玄蕃! ISBNコード密造の罪は重いぞ! 神妙にしやがれ!」

「洒落臭い! 貴様の弱点はもう割れておるわ! 裏表師は裏表紙にしか出られないのだろう!」

「どこでそれを!」

「ねぇねぇ越後屋

「なんでしょうお代官様」

「なんでもない」

「そうですか」

「やめろ! 行を消費するな!」

 裏表師最大の危機。だがその瞬間、ぴゅんという音を引いて紙片が飛んだ。

「ぐぬっ! 何奴!」

「あたいは背表師」

「背表師だと!」

「しまったここは裏表紙うぐぐ」

 背表師は死んだ。

 屋敷の庭の鈴虫が悲しげに鳴いていた。

 

 続いては裏表紙に咲いた変わり種、独創短編シリーズ 野崎まど劇場 (電撃文庫)より「裏表師~文庫裏稼業世直し帳~」です。裏表紙には”あらすじ”という常識を逆手にとった手法。というかこの本全編こんな感じ。

 ちなみに折り返し部分のあらすじには「この本を許せた時、君はひとつ大人になる――」というメッセージが書かれている。

 

張飛は死なず。呉への報復戦を劉備自ら率いる蜀軍は、関羽を弔う白亜の喪章、張飛の牙旗を掲げ、破竹の勢いで秭帰を制した。勢いに乗る蜀軍に対し、孫権より軍権を委ねられた陸遜は、自軍の反対を押し切り、夷陵にて計略の秋を待つ。一方、自らの生きるべき道を模索し、蜀を離れゆく馬超。呉の臣従に対し、不信感を募らせる魏帝・曹丕。そして孔明は、呉蜀の決戦の果てに、遺された志を継ぐ。北方<三国志>衝撃の第十一巻。

 

 これは北方謙三三国志〈11の巻〉鬼宿の星 (ハルキ文庫―時代小説文庫)のもの。僕の好きな”あらすじ”の一つだ。といっても呉への報復戦だの陸遜だの孔明だのはどうでもよい。「張飛は死なず」北方御大のハードボイルド感を伝えるには冒頭のこの一文だけで十分だ。さすがにこの一文だけじゃあらすじにならないけど。

 

 さて、色んな”あらすじ”を取り上げてきたけれど、中にはこれはどうなの? というものもある。一番大きいのがネタバレだ。”あらすじ”はあくまで導入であって、もっとも肝心な部分は読者が本文を読んではじめて分かるようになっていなければならない。

 そこで最後に今まで遭遇した中で一番酷いネタバレ”あらすじ”を紹介しよう。ネタバレといってもホラーやミステリー小説ではない。19世紀を代表する大作家バルザックの『ゴリオ爺さん』だ。

 

奢侈と虚栄、情欲とエゴイズムが錯綜するパリ社交界に暮す愛娘二人に全財産を注ぎ込んで、貧乏下宿の屋根裏部屋で窮死するゴリオ爺さん。その孤独な死を看取ったラスティニャックは、出世欲に駆られて、社交界に足を踏み入れたばかりの青年だった。破滅に向う激情を克明に追った本書は、作家の野心とエネルギーが頂点に達した時期に成り、小説群《人間喜劇》の要となる作品である。

 

 『ゴリオ爺さん』を読んだことのない人は、これのどこが問題なんだと思うかもしれない。

 僕はこの”あらすじ”を読んで本を買ったとき、『ゴリオ爺さん』という作品は青年ラスティニャックがゴリオ爺さんの死に追いやった社交界とどう交わっていくかを描いた作品なのかな、と思った。おそらく多くの人が同じような予想をすると思う。

 ところがこのゴリオ、読んでも読んでも死なないのである。300ページを過ぎてもまだぴんぴんしている。ゴリオが元気なうちに、下宿に脱獄囚が紛れ込んでいたり娘が旦那に捨てられたりと次々と事件が起きていく。結局、ゴリオ爺さんが死ぬまでに全508ページの中の500ページが消費され、物語は娘二人に代わってゴリオ爺さんの埋葬を済ませたラスティニャックが、墓地がある丘の上からパリを見下ろしながら社交界との戦いを決意するところで終わってしまう。

 『ゴリオ爺さん』は爺さんが死んでからの話なのではなく、爺さんが死ぬまでの話だったのだ。ところが”あらすじ”の二行目で早くも爺さんが死んでいるので僕は爺さんが死んでから話が展開するのだと勘違いしてしまった。

 小説の中にはストーリーがわかっていても問題でない作品もある。先程の『金閣寺』でいうなら、美の象徴である金閣に主人公がどういう心情を抱き、それが変化していったのかという点こそが重要なので、最終的に主人公が金閣に放火するという結末を知っていても問題ない。だからこそ『金閣寺』の”あらすじ”はその結末を”ネタバレ”している。

 確かに『ゴリオ爺さん』の本質もパリ社会の格差を描いたことであって、単純にストーリーだけでは読み解けない。しかし同時に『ゴリオ爺さん』はエンタメ小説でもある。下宿の面々それぞれの滑稽な生活が描かれたり、謎の男ヴォートランがラスティニャックをアウトローの世界に誘惑したりと、読者を楽しませて先へ先へと読ませる仕掛けがされている。

 この”あらすじ”は『ゴリオ爺さん』の持つエンタメ性を軽視して、格差というテーマばかりを宣伝しようとしたために生まれてしまったのだろう。

 

 去年、本屋でこの新潮文庫の『ゴリオ爺さん』が平積みになっているのを見かけた。聞けばトマ・ピケティだかピケ・トマティだかが『ゴリオ爺さん』を格差社会の象徴として取り上げたおかげだという。検索してみたら読書メーターのコメントにも「ピケティさんの指摘する格差社会が訪れてしまわないよう私たちの意識を変える必要がありますね」なんて投稿ばかり上がっていた。この状況だったらあの”あらすじ”も逆に効果的かもしれないなと苦笑いしたことを思い出す。

ゴリオ爺さん (新潮文庫)

ゴリオ爺さん (新潮文庫)