とろろ豆腐百珍

親知らずの炊いたん食べたいね

オーラル・ヒストリーは『ねほりんぱほりん』他に追い付けるか(大門正克『語る歴史、聞く歴史』)

 話を聞くのが苦手だ。いや話すのも得意ではないが。自分の持っているエピソードのストックを放出するのは欲するところなのだが、他人の話を引きだしたりふくらませたりということをあまり欲せざるような案配なので会話が続かない。質問力、傾聴、絶無。コミュニケーション・バリアフル。

 そうした人間なのでオーラル・ヒストリーや聞き書きなどの学術調査にせよ、ドキュメンタリー番組やバラエティ番組のスタッフにせよ、すべてインタビュアーという人間は尊敬する。この人たちのおかげで自分は安全なままに誰かの人生を感受して笑ったり泣いたり憤ったりできているのである。

 拒絶されるかもしれない危険を冒して他者の人生を引きだす勇気と技術は研究者もテレビスタッフも変わらないはずだが、オーラル・ヒストリーや聞き書きなどの方法への関心が高まる一方でドキュメンタリー番組やバラエティ番組の「調査」は別物扱いされがちな気がする。

 

 幕末維新の回顧録や遠野物語から現在の介護現場での聞き書きによる介護民俗学まで含めて日本の「語る歴史、聞く歴史」の歴史を追った大門正克『語る歴史、聞く歴史』はめちゃ良い本だが、それでも記録映画やラジオ・テレビといった音声・映像メディアの作品や意味は全く触れられていない。

 

語る歴史,聞く歴史――オーラル・ヒストリーの現場から (岩波新書)
 

 

 しかし本来「語る、聞く」という行為との親和性が圧倒的に高いのは文章よりも音声・映像の方なんじゃなかろうか。

 

 『語る歴史、聞く歴史』は日本の聞き取りによる歴史を偉人、政治家、著名人などのエリートを主な対象にして政治、行政、ジャーナリズム、社会運動などの記録に重点を置いたものと、労働者、女性、在日外国人などの抑圧された人々を主な対象にして体験を聞くことに重点を置いたものの2パターンに分ける。

 体験を聞く歴史は「語り手の身体や感情とともに存在」しているため、著者は語り手と聞き手がつくりだす<現場>を重視する。それならばなおのこと、語り手と聞き手の言葉を超えた身体を映し出し視聴者が<現場>を疑似体験できる映像メディアの役割は大きいはずだ。<現場>の再現という点では文字は映像にどうしても勝てない。

 逆に文字で<現場>を叙述する利点というのを考えてみると、「匿名性を維持できる」ことしかないように思える。全て映してしまう映像に対して、文章はどこまでもイメージなので。これは特に抑圧されてきた人々の声を聞くならば大切だろう。

 

 こう考えるとNHKEテレでやってる『ねほりんぱほりん』は人形劇をかませることで「身体や感情」を再現しつつ匿名性の維持にも成功しためちゃくちゃ画期的な番組であることに気付く。「元薬物中毒者」だの「偽装キラキラ女子」だのを社会の病理としてではなくひとつの人生として扱える『ねほりんぱほりん』は日本の「語る歴史、聞く歴史」の最前線にあるに違いない。 

 

ねほりんぱほりん ニンゲンだもの

ねほりんぱほりん ニンゲンだもの

 

(教育テレビ人形劇のノウハウをこんなゲスな番組に投入してしまってめちゃくちゃ怒られてそう)

 

 ドキュメンタリー番組やバラエティ番組は扱う対象の点でも「語る歴史、聞く歴史」の最前線にある。先程の2パターンでは、エリートにせよ抑圧された人々にせよ、何らかの”特別な”経歴を持つ人が聞き取りの対象になっていた。しかし最近のドキュメンタリー・バラエティでは偶然性を企画に取り入れることで”特別でない”人を取り上げることが主流になっている。

 例えばテレ東の『家、ついて行ってイイですか?』やNHKの『ドキュメント72時間』が思い浮かぶ。『家、ついて行って』は終電を逃した状況、『72時間』は街角の場所に最初の視点を置くことで、”特別でない”人(もちろん放送されるのは十分個性的な人が多いが)を取り上げることが可能になっている。

 

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(「家、ついて行ってイイですか?」って、そういうビデオの導入じゃん)

 

こうしたドキュメンタリー番組やバラエティ番組が「語る歴史、聞く歴史」の中でもちゃんと評価されるようになればいいのにな、いいのになと思っている。おれは安全なままに誰かの人生を感受していたいので。

 

GALAC 29年12月号

GALAC 29年12月号

 

  (新型ドキュメンタリー最前線…未読だけど似たようなこともう言われてたら恥ずかしいね)