とろろ豆腐百珍

読んだ本の感想などを書きます

60年代インテリ小説とフェティシズム

 インテリという言葉が輝いていた時代があったらしい。

 

 夏目漱石やなんかが帝大で教えていた明治末から学生運動が流行らなくなる70年代ごろまで、主に大学で学問と教養を修めた人間は人間がデキてきて、人間がデキた人間には世の中を良い方向に導いていくことができる能力があるし、その責任があるという考え方があった。いわゆる「教養主義」というやつだ。

 昔の評論やエッセイを読んでいると「インテリの使命」「インテリの課題」を論じたものがたくさん出てくる。一方で当然それに反発する考え方もあって鼻持ちならないインテリはぶっつぶせという主張もされている。

厭な奴、厭な奴。小賢しい奴。こ奴には張って行く肉体がない。頭でっかちの、裸にすれば瘠せっぽちのインテリ野郎。こ奴等は何も持ってやしない。何も出来やしない。喋るだけ、喋くって喋くって何も出て来ない言葉の紙屑だけだ。俺を見て、大学まで行ってと奴等は言うが、俺も大学まで行ってこ奴等みたいになりたかない。

石原慎太郎「処刑の部屋」1956年)

 こうした否定の形であっても、インテリのあり方が意識されていた時代は遠い昔と言えるだろう。同世代の半数が大学に進学する現代ではインテリという言葉自体が死語に近い。

 

 60年代に書かれた小説には「インテリはどうあるべきか」を主題にして流行ったものが多い。『赤頭巾ちゃん気をつけて』『邪宗門』『されどわれらが日々』『青春の蹉跌』などなど。

 学生運動が盛り上がる中で多くの学生がそうした小説を読み、感化され、いまや一人前のインテリ老人になっても若い世代に「青春の一冊」としてそれを奨めるので、それらは古典のような扱いを受けている。

 ところが、これらの小説を実際に読んでみると意外にバカバカしい内容のものが多くて、それなりにおもしろい。

 それは考えてみると当たり前で、作者の政治的主張や小難しいインテリ論とは別にわかりやすい読ませどころがないと、一部の熱狂的政治青年・文学青年だけでなく幅広い層の読者にウケるわけがない。

 そしてその読ませどころはいみじくも三島由紀夫が「悪文のお手本」として挙げたところの「性的なくすぐり」にあることが多いと思う。

 

高橋和巳邪宗門

 例えば高橋和巳の長編『邪宗門*1には颯爽と馬にまたがり乗馬鞭を振り回す自由奔放なお嬢さまが登場する。

「その上に蛇が死んでいるのも知らないで、ふふ」

見違えるような乗馬服を着た行徳阿礼が、馬をあやつりながら鞍の上で笑っていた。紺色の背広姿がいつもより一層阿礼を大人っぽくみせ、襟元から、下着の白いレース飾りがのぞいている。束髪を崩して髪は後に垂らされていた。(p81)

 阿礼は主人公の少年千葉潔のことを気に入りながらも素直になれず召使いのように扱い意地悪ばかりしてしまうという、わかりやすすぎるキャラだが、やたらと鞭を振り回す。

「ことわるよ、そんな臭いこと」阿礼は鞭をふりまわしながら言った。千葉潔が最初に佐伯医師の診断をうけた時の垢だらけの姿を、阿礼は時おり嫌がらせに使った。(p82)

 

乗馬用の鞭がびゅっと空をきって鳴った。それは千葉潔の眼前をかすめただけだったが、彼の頬は皮膚をもぎとられたように一瞬熱くなった。

「盗んだのでないんなら、その鉛筆をだれにもらったのかお言い。言えないの」

行徳阿礼は縁側に仁王立ちして、庭に土下座している千葉潔をにらみすえた。(p197)

  また鞭以外にもツンデレお嬢さまへの(作者の)愛を表すアイテムが他にも登場する。

テニスのラケットをもち、白い運動着にブルーマ姿の行徳阿礼が、モンペ姿の堀江民江や中学服に草鞋ばきの上田荘平を伴って、川原に出てきた。春とはいえ、まだ朝夕は冷えこみの激しい川原に、ブルーマ姿は大胆すぎた。頬だけではなく、すらりと伸びた阿礼の脚が、目を瞠るような桜色に染まっている。(p289)

「ブルーマ姿は大胆すぎた」とわざわざ書くあたり高橋和巳も狙ってやっているとしか思えない。このくだりはストーリーにも全く関係ないので、ちょっとした読者サービスのつもりだったのだろうか。

 第一部のラストで阿礼の父が教主を務める教団が弾圧によって壊滅し、負傷した潔が担架に乗せられ警察へ連行されていく時も、阿礼は馬に乗って駆けつける。

 「不潔者! お前も出ておゆき!」

なにを怒るのか、びしっと鞭がふりおろされ、担架をもっていて身をかばうことのできない有坂卑美子*2の頬に、まともに鞭がとんだ。悲鳴をあげて、有坂卑美子が首をねじったままよろける。耳から唇にかけて、薄い皮膚にみみず腫れができ、刑事が助けるよりも先に彼女は膝を折ってくずれ、千葉潔が担架からころげ落ちた。そして刑事が馬上の娘の振舞にあっけにとられている間に、高い蹄の音を残して、行徳阿礼の馬は本部のほうへ駆けもどっていった。一瞬のできごとだった。(p449)

  結局別れの瞬間までお嬢さまは鞭を振るっているのだった。

 その姿はひと昔前のライトノベルで量産されていた主人公に理不尽な暴力を振るうヒロインと何ら変わらない。

邪宗門』には他にも居候先の義妹、無口な幼馴染、甘えさせてくれる義理の姉と多彩な女性キャラクターが登場し、全員がなぜか主人公に惚れているご都合主義の世界である。

 

庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』

 他にも庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』*3では裸白衣の美人女医が登場して主人公の高校生薫くんを翻弄する。

彼女は白衣の下に、それこそなんていうか、つまりなんにも着けていなかったのだ。彼女は、医者というよりごく普通のやさしい女性といった感じで、ひざまずいたまま実にゆっくりと包帯を巻き取りにかかったが、ぼくはそのちょっとかがみこむようにしている彼女の胸元から、彼女の眩しいような白い裸の胸とむき出しの乳房を、それこそほぼ完全に見ることができた(そしてもちろんもう吸いつけられたみたいに見てしまった、言うまでもないけれど)。これはまさにどえらい事態と言うべきだった。ぼくはもうあっという間に興奮してしまった。(p42)

  そして大人の女性を演出する小道具としての煙草。

注射がすむと、彼女はまたぼくにゆらめくように微笑みかけ、それからゆっくりと立ちあがった。そして注射器をしまい、代りに白衣のポケットからホープの箱とライターをとり出して窓の方へ歩いていき、煙草をくわえて火をつけた。そしてのけぞるようにして深く吸いこんだ煙を、熱気で曇った窓ガラスにゆっくりといつまでも吐き出した。それは思わず溜息が出るほどの鮮やかで魅力的な煙草の吸い方で、ぼくはなんていうか、彼女の魅力はただその素敵な乳房だけではないのだというようなことを、自分に言いきかせるように考えた。(p46)

  ここでもまた現代のコンテンツでよく見かける様式美のような構図が採用されている。

 

 詰まる所60年代インテリ小説のフェティシズムも現代とあまり変わりないので、ゲバ棒握った政治青年もpixiv10000users入り感覚で小説を読んでいたということなのかもしれない*4

 

 インテリゲンツィアが滅びても絶対的鉄板シチュエーションは滅びない。

*1:すべての宗教団体が有する世直し=革命の思想を描き、全共闘世代に支持された。文藝春秋編『東大教授が新入生にすすめる本』2004年にランクインするなどいまだに一定の人気がある。1965年初出、引用は2014年刊河出文庫版上巻を参照

*2:阿礼の女中として仕えながら潔を〈教弟〉にして庇護し童貞を奪おうと迫る〈教姉〉。よく批判される男性作家の描く歪んだ女性像そのもの

*3:東大紛争で入試が中止になった春、高校三年生の薫くんが変化する社会の中でどう生きていくべきかを悩む日々を『ライ麦畑でつかまえて』を思わせるくだけた文体で描いた青春小説。第61回芥川賞受賞。初出1969年、引用は1995年刊、2002年改版中公文庫版を参照

*4:同時に社会思想は論じられても女性を属性でしか捉えられないインテリの幼稚性を表しているとも言える