1.
「いざエリス、我と契りて魔法少女となりてよ」
いとらうたき白き獣ぞ我にたづぬる。四方よりは、げに恐ろしげなる「魔女」の「結界」の我に迫り来つつあり。
あゝ、誰が知りけむや、「ヰクトリア座」の舞姫とて多少は 都 人 どもに名を知られたる我の、一夜にして父を失ひ、かくの如き 数 奇 なる目にあはんことを。
わが父は肺疾にてはかなくなりぬ。明日は葬らでは 愜 はぬに、家には一銭の貯だになし。日ごろたのみに思ひし「ヰクトリア座」のシャウムベルヒは、剛気なる父の死にたるに附けこみて、我に汚れたる行ひせよと言ひ掛けたり。母は彼に従へと我を打ちつ。
この 朝 、我は母と、明日の 葬 を前に 臥床 に伏したる父のなきがらから、逃れるやうに家を出でき。ベルリンの都中をあてもなくさまよへども、何らの手だてなし。一度ならず「シュプレエ」川に身を投げむとせしも、父と我とをともに失ひ、一人遺さるべき母のこと心に浮かびてとどまりたり。疲れはて、クロステル 巷 まで帰り来し時分には、すでに日も暮れぬ。
この狭苦しき 巷 に面して、 凹 字 の形に引籠みて立ちたる一古寺あり。在りし日の父に聞くに、三百年前の遺跡とぞいひし。この処を過ぎむとするとき、つねは 鎖 したる寺門の扉の、煌々と輝けるを我は見たり。あやしがりて、つと歩み寄るに、 鋼鉄 の扉は音もなく開きぬ。伽藍の内より洩るるあやしき光に心あくがれて、歩み入るうちに、いつしか夢見るやうな心地にぞなりゆける。
後に知りぬ、すでにわが身の「魔女」が「結界」のうちに取りこまれたりけるを。
うちつけに甲高き女の笑声と「ピヤノ」の響起こりて、わが耳を聾し去りぬ。はたと我に返りて、引き返さむとせしも、はるか 後方 の扉は閉ざされ、道は断たれたり。四囲の壁よりは、 蝶 のやうにも 蝙蝠 のやうにも見ゆる真黒き影ども顕れ来つ。「魔女」が「使い魔」なり。女の笑声はいよいよ迫りて刀槍 斉 く鳴り、「ピヤノ」のうちに潜みし 絃 の鬼はひとりびとりに 窮 なき怨を訴へり。
「もはやこれまで」と観念したるとき、訝しや、わが心のうちにあやしくも鳴り渡りたること葉あり。
「我と契りて魔法少女となりてよ」
是がわがインキュベヱタアとの出会ひにて、世にも稀なる「魔法少女」が物語の始なりき。
「魔法少女」とは「魔女」を殺すものの 謂 ひなり。
すでにわが身の「魔女」が「結界」のうちに取り込まれたる上は、「魔法少女」となる 外 に手だてはなし。この場にて「魔女」を殺すか、喰ひ殺されるか、二つに一つなれば。
キュゥべえ――白き獣はかく 名告 りつ――曰く、「魔法少女」の契りには願ひごとが必要なりと。昔は知らず。今の我にとりて、願ひごとは問はれるまでもなく定まりたるべし。
「父を葬り、母を貧苦より助け、我を救ひ 玉 ふ救ひ主の顕れ来たらむことを」
キュゥべえと、神もまたわが祈りを聞き届け玉ふにや、暖かき光が 身体 を包み、垢つき汚れたる 獣 綿 の衣は純白の「レエス」にて飾られたる美しき 舞 衣 に、破れたる編み上げ靴は甲に白き薄絹巻きたる「バレエシュウズ」に変じ、くしけずらざるわがこがねの髪は 絮 の如くいと軽き「ベエル」にて覆われたり。傍にはうせし仕立物師の父が仕事道具にも似た、身の丈ほどの縫ひ針ぞ刺剣のやうに立ったりつる。
「 洵 に我は「魔法少女」になりたるか? わが祈りや遂げられむ?」
「案ずべからず、エリス、君が願いは必ず遂げらるべし。されど、今の憂ひは「魔女」なり。いざ、「魔法少女」の力を解き放ち玉へ」
物語りせしもつかの間、一弾指の間に四囲の「使い魔」ども、赤き黄なる 燄 に点じて、無量の火の粉となりて、猛然と我を襲い来たり。されど、我とても十五の歳よりの温習に、今や「ヰクトリア座」第二の地位を占めたる舞姫なり。数奇なる魔法の力を脚に籠め、踏みなれたるステップにて彼をすり抜け行かば、何人も追ひすがり得ず。
伽藍の大広間にては、「ピヤノ」のしらべに誘はれて国ぐにの軍服着たる士官の泥人形、金剛石の露 翻 るる貴婦人の影絵ども、輪を画きて踊りたり。その真中にて一心に「ピヤノ」に弾じほれたる 欠唇 の笑女あり。彼が「魔女」ならば、この伽藍は「使い魔」どもの舞踏場ならむか。さらば、もっとも華麗に舞ひ得るは我を措きて外にあらじ。 裳裾 翻して跳び行き、遮るは貴も賤も切り捨てゆきつ。我に心付きてしらべ乱れし「魔女」が 瞼 際 に、 右 手 に持ちたる針を突き立てしかば、あはれ、彼は黒き塵となりて散り失せぬ。あとに 遺 ししは、小さき珠飾りのやうなるもののみにて。
「そは「グリイフシイド」なり。わりなき「魔法少女」が 業 の 報酬 なれば、ゆめな 棄 て玉ひそ」
キュゥべえはさう言ひ掛けつるも、 忽 ちにして「魔女」の「結界」も、キュゥべえの姿も消え、いつかもとの寺門の前に我は返れり。もしや、今までのことはすべてうたかたの夢にやあらむと思へども、手の内には白き「ソウルジェム」と黒き「グリイフシイド」の二つあり。足の重さも、戦ひの中で負ひし傷も、また夢ならざることの証なり。思い返せば昨日よりわが身は一片の 麵麭 だに口にせず。心細さと満身の疲労湧き出で、思はず寺門の扉に 倚 り涙をこぼししとき、わが側に倚れる人あり。
「何故に泣き玉ふか。ところに 繋 塁 なき 外 人 は、かへりて力を借しやすきこともあらむ」
これなん太田豊太郎君、願ひに応へてインキュベヱタアのよこせし、わが救ひ主なりき。
2.
豊太郎の君はまことにわが救ひ主なりき。
彼は学生の身にて多くはあらざらむ 財 を 抛 て、我と母とを貧苦の 裡 より救ひ出しぬ。遠き 東 の「日本国」の留学生たる彼は、 賤 しき女優の身の上なる我を官舎にも招きて、手づから 文 を教へ、こと葉の訛をも正しぬ。卑しき貸本屋の小説のみ読み習ひし我に、ハイネの詩、シルレルの戯曲など読み聞かせしも彼なり。されど、豊太郎君が我に授けしはそれのみにや? 否、豊太郎の君は、もの知らぬ 処女 の我に、尊き愛の恍惚をもまた教へたるなりき。
或る日、つねの如く彼がモンビシュウ街の官舎を訪ひし我の手をとりて、豊太郎君は涙をこぼしつ。
「何故に泣き玉ふにや? 一度窮地にありし我を救ひしはおん身なりき。こたびは我がおん身を救ふべきやもしれず。さはりなければ、わけをば話し玉へ」
なほも暫しの間、彼は口を 緘 しつるも、やがて 面 うち伏せてこと葉を紡ぎ始めぬ。
「公使はつひに我官を免じたり。彼が余にいひしは、おん身もし即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、もしなほここに在らむには、公の助をば仰ぐべからずとのことなりき。かくの如き論法をもって、彼は余にむかひて、一週日のちには 独逸 を発つべしと強ひたりき。さらに今日、余は我生涯にて 尤 も悲痛を覚へさせたる書状に接しぬ。この書状は、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる 書 なりき。余はいま母をうしなひ、一週日のちにはエリス、おん身をもまたうしなふべき運命なるべし」
いひ 畢 りてのち、彼は再び口を緘して声もなく泣きぬ。我もまた彼の数奇を憐みて泣きぬ。
書院の窓下はいと静にて、ただ 卓 の上の時計のみセコンドを打ちつ。
今にして思へば、彼はこの時沈黙によりてわが憐憫を愛情と錯覚せしめ、「共に暮さむ」のこと葉の、わが口より出づるを待ち居りたりけむ。そは意思弱き彼の常套手段なれば。されど、あはれ、いまだ十七にしてもの知らぬ我エリスは、太田豊太郎君に甘きこと葉と愛の恍惚とを捧げにけり。
我と豊太郎君との交際を知りて、キュゥべえは喜びぬ。曰く「豊太郎との愛はエリスにとりて希望とならむ。魔法少女が希望の大きく育ちゆくは我らにとりても喜ばしきことなり」と。
これより先、豊太郎君はモンビシュウ街の官舎を出、クロステル巷の僑居にて我と母と共に暮らすやうになりぬ。彼は官を免ぜられしも、遠き東京の相沢謙吉なる朋友の斡旋にて、某新聞の通信員となり、ベルリンに留まるを得たりき。
朝の 珈琲 果つれば、彼は原稿の材料集めに、我は舞台の温習にといつはりて「魔女」狩りに往かむ。大道髪の如きウンテル・デン・リンデンを行く 隊々 の士女、胸張り肩 聳 えたる士官、 巴里 まねびの 粧 ひしたる 妍 き 少女 を見よ。首筋に「魔女」の接吻しるしたるはあらんか。人どもを不思議の境地にさそいこみ、「グリイフシイド」の糧となさん「魔女」を殺すがわが使命なるに。昼はキュゥべえと共に「魔法少女」のあやしき舞姫姿に変じて「魔女」を狩り、夜は「ヰクトリア座」の舞姫として舞台に立ちつ。家に帰りては豊太郎の君をむかへて、椅子に寄りて縫ものなどしながら、彼がにぎりし筆の原稿紙の上を走る音聞きながら、眠りに落ちぬ。かく楽しき月日を送るほどに、 幾 年 か夢のやうに過ぎて、明治廿一年――是は「日本国」の暦なりけり――の冬は来にけり。
その朝は日曜なれば豊太郎君も家にあれど、心は楽しからず。数日前より心地悪しく、もの食ふごとに吐きて、我は椅子に寄りて身を休めたり。母は 悪阻 にやあらむと言ひしも、豊太郎君は喜ぶにもあらず、寧ろこと葉 寡 くなりて、窓外の雪を見つめるばかりなるも、わが心を楽しませず。自然黙しがちになりし折、母が一通の書状を持て来て彼にわたしつ。読み畢りて茫然たる 面 もちせる彼は言ひぬ。「おん身も名を知る相沢が、大臣と倶にここに来て我を呼ぶなり。急ぐといへば今よりこそ」
今は「日本国」の天方伯に仕ふるといふ相沢が招きなれば、郷里にては忘れられし豊太郎君の、再び世に出るたづきにもならんかと、やや放心せる彼を励まし、 容 をあらため、襟飾りさへ手づから結び、接吻して送り出しつ。されど、 室 に独りになりてみれば、あれこれとよからぬことばかりが心に浮かびぬ。我と彼との身分の違ひ、「願ひごと」によりて得たる愛の一抹の後ろめたさ、わが妊娠を知りし彼の覚束なき面がまへ。
「心許なしや? エリス。気がかりならば豊太郎が様子を垣間見すればよかるべし」
いつしか窓の側に坐したるキュゥべえが言ひぬ。
「如何にして。伯と相沢が身は「ホテル・カイゼルホオフ」にあらむを」
「君は「魔法少女」なり。魔法の力をもてすればいとやすきことなるべし」
その言にしたがひて、首に下げたる「ソウルジェム」に意を集むれば、遠き「ホテル」の一室、午餐の卓を前にせし二人の男の姿、やうやうわが眼前に像を結びぬ。一人は見紛ふはずもなきわが豊太郎の君、もう一人は豊太郎君と同年輩なる色黒く肥えたる男。かの男が相沢謙吉ならんか。
はじめ二人は豊太郎君が大臣より委託せられし翻訳のこと、郷里に残りし旧友の消息などを談じ合へり。相沢が快活の気象は 尋常 の官吏の冷酷なるにも似で、時に萎縮せる朋友を励まし、時に声を荒げて有為の人材を排斥しける凡庸なる諸生輩を罵りぬ。されど話頭が転じてわが身の上に入りたるとき、彼は色を正して諌むるやう、かの少女との関係は、 縦令 彼に誠ありとも、縦令情交は深くなりぬとも、人材を知りての恋にあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。意を決して断てと。
「ああ、彼は甚しき心得違いしつるかな。わが君とく言ひ分け玉へ」
魔法は像を結べども、声は届けず。豊太郎君は否とはいはず、ただ蒼然たる面持ちして、諾と、頷きぬ。
日課の「魔女」探しにと僑居を出しときはすでに夕暮れなりき。依然心地は優れねど、ここ数月わが「ソウルジェム」は濁りがちになりて「グリイフシイド」 缺 かせずなりぬ。されど、「魔女」の痕跡もとめて大都を漫歩せし折も、「魔女」が「結界」の内に入りてのちも、わが胸中にはわりなき相沢がこと葉と、やをら首を縦に振りし豊太郎君の姿ばかり浮かび来て、我を苦しめつ。豊太郎が君の「優柔不断」の気象は知悉すれど、ことがことなれば。相沢は天方大臣が側近にして、その意を体する者なり。もし彼らが富貴と栄達を食餌に豊太郎君を日本へと誘ひしとき、わが君は我をば見棄て玉はずとは 迚 も言ひ切れず。我には老ひたる母あり。我には産れん子あり。彼が我を見棄て玉はば、我は如何すべき、産れん子を如何せん。
激しき戦ひの最中にも思ひは千々に乱れて、脚はとられ、腕は振わず、涙は止めどなく流れ出づ。つひに我は戦ひ敗れて「魔女」が黒き触手に搦め取られたり。触手と見えしは美しき 頭 、長き頸より幾条も垂れたる「魔女」が 辯 髪 の一房にて、わが身を強くきつく締め上げつ。
ここで死なば、わが君は我を棄て玉はず。 斯 くなりしもわが一定の運命かと、捨て鉢にもなりし時、一陣の風 颯 と吹寄せて、我をくくりし辯髪は根元より刈り取られぬ。
「 痴 なり。痴なり。音に聞くベルリンの「魔法少女」何するものぞ。この地の「グリイフシイド」はすべてわが掌中に収むべきなり」
かく声高く叫びつるは、こがね色の断髪を風に吹き散らしたる十七、八の少女。その顔ばせはヱヌスの古彫像を欺き、ふるまひには 自 ら気高き処ありて、勢よく突立ちたる姿は女神バワリアの像を思はせり。
「誰そ」「彼女はミュンヘンの「魔法少女」マリイなり。エリスの前に契約を結びし古兵にして、「グリイフシイド」狩るためならば手段択ばぬ癖者なれば用心せよ」
キュゥべえ顕れ出でて語りたる間も、少女は縦横に白刃を閃かせ忽ち「魔女」の辮髪十数束を尽く刈取りたり。露わになりし「魔女」の姿は 希臘 神話にいふ「ケンタウロス」の主客を逆さにしたるやうな馬頭人身の怪物にて、 瞋恚 のほむら燃ゆるまま少女に躍り掛からんとす。
「人の胴に馬の面載れるとは、こは醜き 継 子 なり。学ありて才なき美術諸生の口先のみにて彫れる像の如し。かかるえり屑にミネルワの唇いかで触れむや。わが冷たき接吻にて、満足せよ」
少女は、何処より取り出しけむ「コップ」を手に、中なる水を口に 銜 むと見えしが、只 一 噀 。
噴掛けし霧は「魔女」を包み、眩き光を放ちて炸裂す。
光やみてのちわが前に立てるは「グリイフシイド」握りたる「魔法少女」マリイ一人なりき。
最早事は畢れりとばかりに、もの言はず立ち去らんとせしも、わが首より下げし「ソウルジェム」見てマリイは気色ばみぬ。
「汝の「ソウルジェム」は将に穢れ果てむとす。説明せよ、インキュベヱタア。この娘に何をさせしか」
「エリスは豊太郎の子を身籠り居りたり。新しき生命を育むにはより大きな活力を要する故に、力の消耗の激しくなるは道理なり」
キュゥべえの答へにマリイは眉根を寄せつ。
「豊太郎? そは何者なるか」
「太田豊太郎君は「日本国」の人にして、わが救ひ主なり」
「「魔法少女」が身籠るなどと、わりなきことをいふものよ。その男も所詮、異国の空に惑はされし心浅々しき人に過ぎぬべし」
「否、わが豊太郎が君は 然 る人にはあらず」
「ならば汝は、その男に「魔法少女」が運命を打ち明け得るといへるか、つらき運命を知りて猶決して 二 心 抱かじといへるか」
「……」
我と問答せし間も、マリイが瞳はわが肩上のキュゥべえから決して離れず。その鋭きこと、あたかも「魔女」に対し居るが如し。
不意に悪阻の悪しき心地再び襲ひ来て、我は気を失ひて倒れんとす。血の気失せ、眼前には白き靄の広がりて意識の綱を手放さむとせし時、わが身を抱き止めしはマリイなり。彼女が手にしたる「グリイフシイド」をわが「ソウルジェム」に与ふると、俄かに眼底の靄は払はれ、わが心地も小康を得たり。わが身を横たへると、礼をいふ間もなく、マリイは大股にあゆみて去りゆかむとす。
「ベルリンの「魔法少女」よ、その豊太郎なる男とそこな穢らわしき白き 獣 の言はゆめ信ずべからず。思ひ定めて交りを断つべし」
振りかへりて言ひ遺せしマリイが言は、不思議にも昼間聞きし相沢がこと葉とよく似通ひたりき。
3.
豊太郎君はやうやう伯に重く用ひられ、わが容体は日にけに深くなりまさりぬ。一月ばかり過ぎて、豊太郎君は伯に随ひ魯国に赴きぬ。しばらくは心細さに日ごとに文を書き、床に臥してわが君のベルリンにかへり玉はむ日を待つのみなりき。
年の瀬の押し詰まりたる或る朝、その日はめづらしく気分優れ、身体も軽く覚ゆれば、 賑 はしき街の市々を経巡りて、生まれ来る子に与ふる 玩具 、 襁褓 の 料 にすべき木綿布など買ひ求めて歩きたり。
足の赴くまま大路を過ぎ、獣苑を漫歩せし折、前より歩み来し婦人とわが肩は触れ合へり。咄嗟に頭を下げし我に女は紙袋差し向けつつ一言、
「マロオニイ、セニョレ(栗めせ、君)」
伊太利 栗うりの声をまねびて 戯 けたるはかの少女マリイなり。
マリイは「魔女」が「結界」の内で見せし気勢にも似ず、上機嫌にて微笑みたり。されど、わが手に提げし玩具、布地を目に留むると忽ち面を曇らせぬ。
「さてもかたくななる女かな。未だにインキュベヱタアの妄言を信じつるとは。汝が身体は子などえ宿すまじ。おん身が孕むは胎児に非ず、「魔女」なり、「グリイフシイド」なり」
余りの物言ひに絶句したる我を、少女は誘ひぬ。
「ここには人目もあらむ。わが 塒 に来たまはずや、楽しき昔話の一つも聞かさむに」
マリイがベルリンにて投宿せし宿は「シュプレエ」川に面したる「ホテル」の一室にて、閉ざしたる窓を徹して寒風吹き込み、辻弾きの、「ヰオロン」の音もあはれに響きたり。
女主人は、客に中央に据ゑし「ゾファ」を勧め、自らは片隅なる椅子ひき寄せ、窓の下なる小机につら杖つきて語りいでぬ。
「まづ何事よりか話さむ。わがマリイが君の身に起きし、世にも稀なる悲しき遍歴の物語でも披露せむか?」
「否、戯れ玉ふな。先の 夕 のおん身がこと葉、はかなき戯とおもへば、しひて忘れむとせしこと、幾度か知らねど、 迷 は遂に晴れず。いままた、わが身が宿すは「魔女」なりと、いみじき謎かけにて我をさいなみ玉ふな。洵のことを聞かせ玉へ」
「「魔法少女」が孕むは「魔女」の卵、「グリイフシイド」なり。そのままの意なり。エリス、汝はインキュベヱタアが何故に我らに、「魔法少女」に力を与ふるか知れるや? かの獣どもの目的は、我らの希望の結晶たる「ソウルジェム」が絶望に染まり、「グリイフシイド」へ変じる瞬間、その瞬間に生ずべき膨大な 勢力 を回収するにあり。謂はば彼らは、願ひごとといふ餌もて女を 拐 し、魔法なる芸事を仕込みて、 仮 りの希望にて妓女を肥太らす 女衒 ともいふべき獣にて」
「されど、わが子は、我と豊太郎君との間に産れん子は如何ならむ?」
「インキュベヱタアは、第二次性徴期の少女の希望と絶望の相転移を食餌とす。「魔法少女」が身籠るなどあり得べからざることなり」
「わが身をさいなむ悪阻は」
「はかなき望みが身内にまことのさはりを生ずることもあらむ」
「嘘なり、 空 言 なり、おん身は狂ひ玉へり」
「なんとでもいふがよし。汝がクロステル巷の古寺にて初めて討ちし「魔女」を覚ゆるか、あれももと「魔法少女」にして、わがまたなき友なりき。月影に汝が手をすかして見よ、既に汝が手は指尖まで血に濡れたるらむ」
少女は暫らく黙しつ。我も継ぐべき 語 見つからず。けさより曇りたる空は、雪になりて、川の畔の 瓦斯 燈 は寂しき光を放ちたり。
マリイは窓外に目を 遣 りぬ。幅広き川の向岸は、往来も殆ど絶へ、戸を閉ざしたる人家の軒下に、 菫花 売りの娘一人佇みたり。
マリイ再び口を開きて、
「我にもまた、汝と同じく救ひ主と崇めし男一人ありき。 奇 しくも同じ「日本国」の人にて、画学生なりき。男と初めて逢ひしは、わが十三の歳にして、日々の生計も立てかねて、貧しき子供の群に入りて花売ることを覚えし頃なり。一日、花売るために入りし珈琲店にて、満堂の人々の心なき仕打ち受け、打ちのめされし我に唯一人情けを掛け、世の人を憎む 穉 き心を救ひし 異国人 あり。幾歳をか経て「魔法少女」になりし折、名も告げず立ち去りしかの人こそわが救ひ主なれ、今一たび、わが救ひ主に逢はせてよ、と我はインキュベヱタアに願ひぬ。果して願ひは叶ひぬ。ミュンヘンの美術学校にて、我はかの男と再会せり。男は画筆を 執 り、我を 雛形 として、美しき「ロオレライ」の画を画かむとす。美術学校の「アトリエ」の一間にて、衣を解き、手に 一 張 の琴を 把 りて、画額の前に立ちし男に無窮の愛もて微笑み掛けし日々は、夢心地のうちに過ぎぬ。されど、かの男の瞳に映りしは我ならず。彼はわが面影を 透 してラインの岸に歌ふ美しき「ロオレライ」の姿を見しのみなりき。エリス、汝も忘るべからず。日本人は我らを愛するにあらず。我らを透して 欧羅巴 の美を愛するのみなり」
マリイの 許 を辞して「ホテル」を出でし時、最早冬の陽は落ちて夜に入りぬ。家路をたどる間も雪は繁く降り、帽の 庇 、外套の肩に一寸ばかりも積りにき。
魯国より帰りし豊太郎君は、塞ぎがちになりて、うはの空なること、しげくなりぬ。
ニ、三日したる或る日の夕、 陋 巷 にふさはしからぬ一等 馬車 、家の前に駐まり、大臣よりの使なりとて、わが君を招き去りぬ。その夜、豊太郎君は遅くまで帰らず。つねならぬ胸さわぎ覚えて、我は 寝 ねずに、彼を待ちつ。この間、去る夕「ホテル」の一室にて相沢がわりなき言に、諾、と頷きし彼の像は、かつ消え、かつ結びて、わが心を離るることなし。
時刻は半夜をや過ぎたりけむ、室の戸のばたりと開く音して、振り返り見れば、変り果てたる姿にて、わが君立ちたりき。面色は蒼然として死人に等しく、髪は 蓬 ろと乱れて、衣は泥まじりの雪に塗れたり。
「いかにかし玉ひし。おん身の姿は」
眸は視れども見えず、耳は聴けども聞えず。唇はわなわなと 慄 へ、ゆるせ、ゆるせと 譫 言 をのみ呟けり。頻りに 戦 く膝を支えんとせしか、椅子を 握 まんと手を伸ばし、そのままに地に倒れぬ。
あゝ、この時母のわが傍になければ、わが身は恐ろしき「魔女」に化してけむ。彼は人事を失ひ、わが精神は絶望の淵に臨みぬ。病床に伏せし彼の枕頭に立ちても、わが心の中ではマリイが言、首を振りし夫の像、葬りし「魔女」の姿など、轟々と渦巻きたり。わけをも知らぬ母の、かひがひしき献身によりてのみ、我らは辛うじて命をこの世に繋ぎ留めぬ。
数週の後、朝はやくから薬もとめにと、母が家を離れし日に、一人の男が戸を叩きぬ。「誰ぞ」と問ふに、「「日本国」天方大臣が書記官、相沢謙吉」と答ふる。その黒き瞳は光なく濁り、いつか見し快活の気象はなりを潜めて、ただ黙然と、陰鬱なる妖気を漂はせたり。
室に上がりし相沢は、我には一瞥もくれず臥床に歩み寄ると、伏したる豊太郎君を横ざまに抱へ上げ、そのまま戸外に拉し去らんとす。
「あなや、是は如何なることにや。何故にかくの如き狼藉をはたらき玉ふか」
わが君を返し玉へ、と腕を取りて追ひすがれども、彼は虚ろなる目をして、日本は普請中なり、日本は普請中なり、と繰り言を呟くばかり。つねの人とも思はれぬ怪力にて、わが細腕を振り払ひ、つひに豊太郎君を何処へか連れ去りぬ。されど、もみ合ふうちに我は見にけり。相沢が襟飾りの下に、忌むべき「魔女」の接吻のしるされたるを。我はこの時、始めてわが地位を明視し得たり。
「キュゥべえぬし、かくまでに我をば欺きしか」
「聞れざれば答へず。そればかりのことなるよ」
影より顕れたるキュゥべえ、ぬけぬけと言ふ。
「豊太郎が隠したる顚末は、わが預り知るところにあらず、彼の心の弱きが招きたる事態なり。それを欺くとまで言はれるこそ心外なれ。さてさてエリス、 疾 く豊太郎を追はずともよしや? 彼が病身では「魔女」が「結界」のうちにて長くは保つべからず。君が「ソウルジェム」はほとんど穢れに塗れたるも、決死の一念以てせば「魔法少女」の肉と引きかへに豊太郎を救へるやも」
「その必要はあらず。なべて「魔女」はわが獲物なれば」
室に三人目の闖入者入来て声を上ぐ。声の主はミュンヘンの「魔法少女」マリイなり。
「「しるし」もちたる男をつけてみれば、エリスが許にたどり着くとは思はざりき。かの「魔女」退治て「グリイフシイド」持て来るほどに、汝はここでしばし待て。さもなくば、そこなインキュベヱタアの思ふ壺ぞ」
かく告げて、急ぎ去らんとするマリイが背を我は呼び止めつ。
「待たれよマリイ。我もともに行かむ、我を 率 て行き玉へ」
「今の汝が身にては変身さへも耐へかぬべし。「魔法」も為さぬ一介の舞姫に、何やせらるる」
「今はおぼつかなし。されど、豊太郎君はわが夫なり。彼を救ふべきは、我を措きては他にあらじ」
「さても呆れ果てたる娘かな。かくほどにたばかられても、なほかの男に執したるか」
マリイが声は怒気に震へしも、不思議とわが心は語るほどに落ち着きゆきぬ。
「我をたばからむとせしも豊太郎君なり。我を救ひしもまた豊太郎君なり。二つの顔はどちらが本性といふこともなし。いづれも洵の太田豊太郎なり。わが愛せし豊太郎君なりけり」
しばしがほど沈黙が流れ、竈の火のはぜる音のみすれど、ややあって、マリイは振り向きもせで、片手を背ろに差し出しつ。
「物狂ひの娘は為む方無し。いざ我とともに来よ。汝が恋ふるその人は「ホテル・カイゼルホオフ」にあり」
我は少女がこなたへ差しのばしたる右手をとり、指と指とをいとかたくからませたりき。
「カイゼルホオフ」が 門 者 に秘書官相沢が室の番号を問ひて、大理石の 階 を登り、長き 廓 をつたひて、室の扉を開けば、「魔女」の「結界」 豁 然 と開きたり。前房からそのまま細く長く奥までのびし廓の、左右両壁には曇なき鏡が嵌まりたり。我らが行手にはボッチチエリの画中より出たるが如き天使が空中に浮かびて、抱へし浄 玻 璃 鏡を、わが面前にぶらさげぬ。
「彼は「魔女」が「使ひ魔」なるか。襲ひ来る気配はなけれど」
「我らが心のうちなる、あだし姿を映して、惑さむとすべし。エリス、ゆめわが手をな放しそ」
マリイが前なる鏡には、清流の岸の 巌 根 に腰かけて、嗚咽の声を出す「ロオレライ」が、わが前なる鏡には、襁褓をつけし 稚 児 抱きて、涙を 濺 ぎて 欷歔 する「 聖母 」が映りたり。
往きゆきて、廓の果ての奥の室は、六面の鏡が壁となりて六角を結びたる大広間にて、 彫 鏤 の 工 を尽したる天井の 弔燭台 は黄蝋の燭を幾つ共なく 点 し、遠く漲りし光の波は幾重もの大鏡に照反されて我らを 囲繞 せり。その広間の中央には、これも六面の玻璃鏡にて囲まれたる六角の 亭 あり。その中なる人を認めて、「あ」と我は叫びぬ。かしこに伏したるは豊太郎君なり。「わが豊太郎ぬし、なほ生きてあり玉ふか、君が命絶えなばわが命もまた絶えなむを」
わが叫びにて「魔女」は目覚めたりけむ。俄に黄蝋の火は燃上り、眩き熱波が我らを包みぬ。
「退がれエリス、「魔女」は我らを焼き殺さむとす」
弾指の間に「魔法少女」が姿に 変化 したるマリイはわが四囲に障壁をめぐらせ、宙を跳びて幾多の燭を切り落としつ。熱き光の波はうすらげど、残る燭の光は壁の鏡に当たりて、屈折し、集束し、一条の熱線となりてマリイを射むとす。間一髪、身を翻しし少女を第二、第三の熱線が追ふ。
「かくも囲まれてはやり切れず。さるにても、敵が本体は何処に隠れ居るにや」
いつしか広間にはそこひ知らぬ憂を帯びたる琴の音と、無窮の怨に満たる泣声が、かなしき旋律となりて響きたり。鏡に映る「ロオレライ」と「聖母」の幻が奏するしらべなり。聴くうちに我もマリイも心地乱されて、思惟もおぼつかなくなりゆく。鏡に映りたる幻像には、マリイの「冷たき接吻」も甲斐なくなりぬ。
「豊太郎ぬし。目を覚し玉へ、わが豊太郎ぬし」マリイが奮戦したる間、我は一心に豊太郎君が名を呼びつづけたり。思ひ窮まりて、まさに欷歔しながら幾度も、幾度も。始めは何事もなくてあれど、幾度目のことにやあらむ、彼が身体の横に垂らしたる腕、 纔 かに動きたり。その動きをめざとく見つけしはマリイが君なり。
「生きてあり、生きてあり。よろこべエリス、汝が君はなほ生きてありつるよ」
刹那、叫びて振り返りしマリイが脚を一条の光がつらぬきぬ。障壁も失せ、駆け寄らむとする我に少女は言へり。
「逃げよエリス。この室そのものが「魔女」の腹中にて、取り籠めらるれば一巻の終わりぞ。わが術もて「魔女」の目をくらます故に、その間に豊太郎を救ひて、おん身は疾く逃げ玉へ」
「されど、汝は如何せむ」
わが問ひには答へず、マリイはいま一度、口に銜みし水を、鏡に映りしおのが分身に向けて噀きかけぬ。霧は忽ち閃光に転じて、閃光は鏡に照りつけ、鏡は閃光を照り返し、満堂の広間を無量光が白く染め上げたりけり。光の中を亭に向ひて走るわが耳を、少女が高き笑声いつまでも聾しつづけぬ。「けふなり。けふなり。きのふありて何かせむ。あすも、あさても空しき名のみ、あだなる声のみ」
六角形の亭の中は、 鋼 索 の切れかかりて左右に揺れたる弔燭台より黒き蝋の粒、二点、三点と絶え間なく垂れ落ちて、煤に塗れたり。寝台に横たはりたる豊太郎君に寄りてみれば、意識はなけれども目は見開き、あるかなきかの微かなる光を宿して、鏡壁の一点を見詰め居たり。鏡壁には、無量の残光が乱離して、虹の如く、さだかならぬ像を結びつつあり。「聖母」の幻なり。射し入る光の加減にて、一刻ごとに面影をかへ、あるは稚児を抱く清らなる少女に、あるは 貌 厳 しき老母になりぬ。
ここに映るはわが心のうちなるあだし姿のみならず、豊太郎君が心に住める鬼なるらむ。彼が眼窩からは識らずして尽きぬ涙が溢れ出づ。我は穢れたる「ソウルジェム」に力を籠め、右手に彼の 項 を抱きたり。
「あはれ、わが君。もはや君が心を苦むるものはなし」
将にその時、天の鋼索切れて頭上の弔燭台落ちなむとす。
我は 諸 手 を彼が項に組合せ、名残の接吻を与へにけり。
わが絶望も、希望も、全ておん身とともにあり。
4.
石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、 熾熱燈 の光の晴れがましきも徒なり。今宵は夜ごとにここに集ひ来る 骨牌 仲間も、座席に籠りて、食堂車に残れるは我一人のみなれば。
ベルリン発ミュンヘン行の特別急行列車は沿線の小駅を黙殺しながら、鉄路を南へ南へと走りつつあり。停車駅の一つでもたらされし、ビスマルク侯つひに宰相を免ぜらるの報に車中はもちきりなれど、わが心を占むるは一年前の「ホテル・カイゼルホオフ」の夜のことなりき。
あの夜を境にベルリンを縄張りとせし「魔法少女」は消え、わが「グリイフシイド」狩りもはかどりゆくようになりぬ。脚の傷も癒え、獲物も狩りつくしたれば、もとの塒に戻るは道理なれど、わが心に深く彫りつけられたるエリスが面影のみぞ心残りなる。
さるにても許せぬは、彼女が命を賭して救ひし日本人、太田豊太郎なり。大臣の一行とともに日本に帰りし彼は、独逸での無節操を恥じることもなく高位の官につき、あらうことかエリスとの愛を自己弁護めきたる小説に脚色して、森某なる変名にて雑誌に載せ、国じゅうに知らしめたるとか聞けり。呆れ果てたる所業なり。されど、我を雛形に「ロオレライ」の画を画きし男もまた、国に帰りて、顚末を浪漫風の書きぶりにて小咄にかへ、出版したると聞けり。確か、その筆名も森某といったやうに覚ゆれど、こは如何なることにや?
否、考へても為む方無し。ことわりなの世にしあれば、かかる不思議もあるものぞ。確かにいへることは、唯一つ。
げに、世に誠ならぬは、インキュベヱタアと日本男児ほどはなし。
(終)