日記をつける。
最近は日記に関する文章を読むことが多い。
わかりやすいところでは、荒川洋治という人のエッセイ『日記をつける』。
有名無名、いろんな人の日記や日記のようなものを紹介した本。
好きなのはゲーテの「イタリア紀行」を引用したあとの一節。
一八七七年七月
二十七日、金曜日。
なにしろあらゆる美術家が、老いたるも若きも、私の僅かばかりの才能をととのえ、ひろげることに助力してくれる。
天気はパス。いきなり本題に飛び込むのである。でも、突然「なにしろあらゆる」なんていわれてもね。
他には漫画家panpanyaがホームページで公開している日記も読んでいる。
直近だと「フルーツティー」「めりはり」「ツナマヨおにぎり/ボディメンテ」と続いている。すぐに忘れてしまう気になるものや言葉、夢を集めて切り貼りしたスクラップブックのような日記。
「考えたこと」
人々の頭の中にある「バーベキュー味」を集めて
平均値をとった「バーベキュー味」と
実際のバーベキューの味には大きな差があるのではないだろうか
シーチキンの対義語はスカイフィッシュなのではないだろうか
力の抜けた文章が心地よい。たまに絵もある。
同じ『楽園』で連載している漫画家の平方イコルスン(二寸)のウェブログもよい。
上京して町を散歩した話やyoutubeで聴いた音楽の話に混じって等身大のタラバガニとカニ殺しの名人が戦う話が書かれていたりして油断できない。
「足」という記事は震災後に書かれたあらゆる文章のなかで一番誠実で、これだけでも読んでもらいたい。
初単行本の『成程』に収録された掌編以来、平方二寸の文章作品は発表されていないがこれほど寂しいことはない。
自分も中学二年以来ずっと日記をつけている。
なるべくその日起きたことだけでなく感じたことや思ったことを書き付けるようにしている。
ところが数年後に読み返してみると何をした、どこに行ったと書かれている出来事はたいてい思い出すことができるものの、その時感じたとされている感情はまるで理解できないことの方が多い。
そのズレは時間が経っているほど大きくなるが、一週間二週間前のことでもどこかに違和感があるものだ。
本当にこの日記は自分が書いたものなのか。誰か全く別の人間が過ごした一日のことではないのか。
長い間日記をつけていると、そうした一文に出会うことがある。
現実と僅かにズレた異世界に手軽に行くことができる。しかも主人公は自分自身。
なんだ日記とは異世界転生ツールのことだったのか。