とろろ豆腐百珍

親知らずの炊いたん食べたいね

イキ告の系譜 ~『三四郎』から斉藤由貴まで~

 オタクは行き成り告白をする。

 修学旅行で、卒業式で、成人式で、オフ会で、同窓会で。

 いちど声をかけてもらっただけの同級生に、料金内のサービスをしただけの風俗嬢に、初対面のフォロワーさん(成人済)に。

 好きでもない相手からの唐突なイキ告は現実世界においては恐怖でしかないが、フィクションの世界におけるそれは、圧倒的な快感を孕む。愚かな告白に及ぶオタクに己の弱さを投影し、手ひどく打砕かれる罰の予感に心は震え、予感が現実となったとき剔出された心臓から滴る血は甘露となって再び我が喉を潤すだろう。アリストテレスはその著書『詩学』の中で「イキ告によってこそ初めてカタルシス≪浄化≫は達成される」と語っている。

  イキ告の多くは異性と接した経験の少ないオタクが、ちょっとした優しさを自分への好意と勘違いするところから始まる。好きなバンドの話で盛り上がった。修学旅行の見学班に入れてくれた。落ちた消しゴムを拾ってくれた。

 ところがイキ告被害を受けた人々はみな一様に「そんなつもりじゃなかったのに……」と困惑を口にする。強者にとってそれは好意どころか優しさですらなく、ほんの気まぐれに過ぎなかったことがほとんどだ。

 この溝は永遠に埋まらない。

 空の青と海の青が決して混じわることがないように、イキ告するものとイキ告されるものはどこまで行っても交わらない。

 ここに二つの優れたイキ告文学がある。一つはイキ告するものの愚鈍さと葛藤を描いた小説。もう一つはイキ告されるものの気まぐれな自己愛を歌い上げたアイドルソング

 時代もジャンルもかけ離れた二つの作品を通して、イキ告という現象の儚さを噛みしめてほしい。

 

三四郎

 夏目漱石日露戦争の直後に『三四郎』を書いた。九州の田舎を出て帝大の門をくぐった文学青年小川三四郎を主人公に、迷える若者の煩悶を描いている。口下手・運動音痴で熱中できるものもなく平凡な日常を送る、どこにでもいる学生……といった体をとりながらいつの間にか個性的な友人や先生と知り合い楽しそうなスクールライフを送り、故郷にはなんだかんだ自分を慕ってくれる幼なじみまでいる三四郎はラブコメの主役にふさわしい。

 一目惚れした"池の端の女"里見美禰子と知り合った三四郎は美禰子の思わせぶりな態度に惹かれていくが、美禰子には他に好きな男がいるようで……果たして美禰子は三四郎のことをどう思っているの!? という小説。

 中盤に三四郎と美禰子が急接近する場面がある。

 三四郎、美禰子、英語教師の広田先生、美禰子と恋仲であるようにも見える野々宮、野々宮の妹のよし子が連れ立って、団子坂の菊人形祭を見物に行く場面。

 一団から離れてひとり出口に向かう美禰子を追って三四郎は会場を出る。人混みに中てられたという美禰子とそのままふたり、祭の喧騒を抜け出して静かな町をさまよい、小川のほとりで空を見上げる三四郎。「このままふたりでパーティを抜け出しましょう?」というのは定番のシチュエーションだが……。

 親密度を上げる絶好のチャンスにもかかわらず「広田先生や野々宮さんはさぞ後で僕等を探したでしょう」と余計なことを聞いてしまう三四郎に対し「責任を逃れたがる人だから、丁度好いでしょう」と答えたり、美禰子は野々宮への当てつけで三四郎を連れ出したようでもある。後の展開から考えると実はこのとき美禰子には縁談が持ち上がっていて、結婚して家に入るか、今までの自由な日々を続けるかで迷っている。あてがわれた縁談での結婚と、野々宮との恋愛との間で揺れる美禰子は、自分と上京したばかりの無垢な三四郎を聖書の迷える羊《ストレイシープ》にたとえてつぶやいたりする。しかし一方の三四郎は「女と何話したらいいかわからんし」と中学生レベルの思考で黙っている。

三四郎はこう云う場合になると挨拶に困る男である。咄嗟の機が過ぎて、頭が冷かに働き出した時、過去を顧みて、ああ云えば好かった、こうすれば好かったと後悔する。と云って、この後悔を予期して、無理に応急の返事を、さも自然らしく得意に吐き散らす程に軽薄ではなかった。だから只黙っている。そうして黙っている事が如何にも半間であると自覚している

迷える子《ストレイシープ》という言葉は解った様でもある。又解らない様でもある。解る解らないはこの言葉の意味よりも、寧ろこの言葉を使った女の意味である。三四郎はいたずらに女の顔を眺めて黙っていた。すると女は急に真面目になった。

「私そんなに生意気に見えますか」

 

 この残酷なまでの見えているものの差が純朴な三四郎をイキ告へと駆り立てる。『三四郎』はイキ告するものとされるものの目線の差が破滅を招く「勘違い型」のイキ告だ。

 別れ際、水たまりを跳び越えようとしてバランスを崩し三四郎の腕の中に飛び込んだ美禰子が再び「迷える子《ストレイシープ》」とささやいたときから三四郎は美禰子に呪縛された。しかし三四郎が恋した美禰子は颯爽と現れた婚約者に連れ去られ、あなたに会いに行ったのですという告白に答えが返ることは永久にない。

 いつの世も恋破れたオタクは思わせぶりな女を「無意識の偽善者」呼ばわりして糾弾するが己の幼さを恥じることはない。

 

『AXIA~かなしいことり~』

ごめんね今までだまってて 今まで彼がいたことを 言いかけて言えなかったの 二度と逢えなくなりそうで

 詩人として90年代に人気を誇った銀色夏生が作詞作曲を手掛けた「AXIA~かなしいことり~」で斉藤由貴は彼氏がいるにもかかわらず男友達から告白された女性の心情を歌っている。

すずしい夜明けの海辺で あなたは子どもみたいね 私はぼんやり遠くを見てた ふたりはかなしいことりね

 二人の関係性は三四郎と美禰子のそれと相似している。二人きりでもどこか達観した女と何も知らない「子ども」の男。

 だが斉藤由貴三四郎の視線に無自覚な美禰子とは違う。

今ではあなたを好きだけど 彼とは別れられない それでもあなたを忘れない ふたりは迷ったことりね

 告白を拒否した上でストレイシープよろしく自分と男を二人とも「迷ったことり」にくくってしまう。一見迷う二人の立場は対等のようだが、彼氏がいるとも知らずに無邪気に恋に落ちた「子ども」の男に対して、斉藤由貴は男の視線に気付きつつ、しかも彼氏と別れられないことを知りながらも、告白させるまで男と遊び続けているのである。無垢なオタクをもてあそび「迷ったことり」の悲しさに酔いしれる斉藤由貴は生粋のオタサーの姫

打ち寄せる波から逃げて あなたの腕に抱きついたのに なぜ見つめたら目をそらすの いつものようにふざけていて

 わざわざ腕に抱きつき、見つめるあざとさを発揮しておきながらいつものようにいろと要求する残酷さがすばらしい。

いつまでもこうしていたいけど 帰れないけど帰るわね これから誰を愛しても ふたりは胸が痛いのね

 ここでもまた斉藤由貴は自分と男を勝手に「ふたり」にくくって「これから誰を愛しても胸が痛いのね」などと決めつけるのである。フラレた上に彼氏がいたことまで知らされ、明らかにオタクの胸が痛いのは今なのに……。

 斉藤由貴はイキ告してきたオタクの心などこれっぽっちも考えない。ただかわいそうな自分の世界の添え物としてしか存在を許されない。気まぐれな神である斉藤由貴に恋をしてしまった愚かなオタクの物語。

「AXIA〜かなしいことり〜」においてイキ告は神話になった。

 

 

AXIA ?かなしいことり?

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三四郎 (新潮文庫)

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