とろろ豆腐百珍

読んだ本の感想などを書きます

イキ告の系譜 ~『三四郎』から斉藤由貴まで~

 オタクは行き成り告白をする。

 修学旅行で、卒業式で、成人式で、オフ会で、同窓会で。

 いちど声をかけてもらっただけの同級生に、料金内のサービスをしただけの風俗嬢に、初対面のフォロワーさん(成人済)に。

 好きでもない相手からの唐突なイキ告は現実世界においては恐怖でしかないが、フィクションの世界におけるそれは、圧倒的な快感を孕む。愚かな告白に及ぶオタクに己の弱さを投影し、手ひどく打砕かれる罰の予感に心は震え、予感が現実となったとき剔出された心臓から滴る血は甘露となって再び我が喉を潤すだろう。アリストテレスはその著書『詩学』の中で「イキ告によってこそ初めてカタルシス≪浄化≫は達成される」と語っている。

  イキ告の多くは異性と接した経験の少ないオタクが、ちょっとした優しさを自分への好意と勘違いするところから始まる。好きなバンドの話で盛り上がった。修学旅行の見学班に入れてくれた。落ちた消しゴムを拾ってくれた。

 ところがイキ告被害を受けた人々はみな一様に「そんなつもりじゃなかったのに……」と困惑を口にする。強者にとってそれは好意どころか優しさですらなく、ほんの気まぐれに過ぎなかったことがほとんどだ。

 この溝は永遠に埋まらない。

 空の青と海の青が決して混じわることがないように、イキ告するものとイキ告されるものはどこまで行っても交わらない。

 ここに二つの優れたイキ告文学がある。一つはイキ告するものの愚鈍さと葛藤を描いた小説。もう一つはイキ告されるものの気まぐれな自己愛を歌い上げたアイドルソング

 時代もジャンルもかけ離れた二つの作品を通して、イキ告という現象の儚さを噛みしめてほしい。

 

三四郎

 夏目漱石日露戦争の直後に『三四郎』を書いた。九州の田舎を出て帝大の門をくぐった文学青年小川三四郎を主人公に、迷える若者の煩悶を描いている。口下手・運動音痴で熱中できるものもなく平凡な日常を送る、どこにでもいる学生……といった体をとりながらいつの間にか個性的な友人や先生と知り合い楽しそうなスクールライフを送り、故郷にはなんだかんだ自分を慕ってくれる幼なじみまでいる三四郎はラブコメの主役にふさわしい。

 一目惚れした"池の端の女"里見美禰子と知り合った三四郎は美禰子の思わせぶりな態度に惹かれていくが、美禰子には他に好きな男がいるようで……果たして美禰子は三四郎のことをどう思っているの!? という小説。

 中盤に三四郎と美禰子が急接近する場面がある。

 三四郎、美禰子、英語教師の広田先生、美禰子と恋仲であるようにも見える野々宮、野々宮の妹のよし子が連れ立って、団子坂の菊人形祭を見物に行く場面。

 一団から離れてひとり出口に向かう美禰子を追って三四郎は会場を出る。人混みに中てられたという美禰子とそのままふたり、祭の喧騒を抜け出して静かな町をさまよい、小川のほとりで空を見上げる三四郎。「このままふたりでパーティを抜け出しましょう?」というのは定番のシチュエーションだが……。

 親密度を上げる絶好のチャンスにもかかわらず「広田先生や野々宮さんはさぞ後で僕等を探したでしょう」と余計なことを聞いてしまう三四郎に対し「責任を逃れたがる人だから、丁度好いでしょう」と答えたり、美禰子は野々宮への当てつけで三四郎を連れ出したようでもある。後の展開から考えると実はこのとき美禰子には縁談が持ち上がっていて、結婚して家に入るか、今までの自由な日々を続けるかで迷っている。あてがわれた縁談での結婚と、野々宮との恋愛との間で揺れる美禰子は、自分と上京したばかりの無垢な三四郎を聖書の迷える羊《ストレイシープ》にたとえてつぶやいたりする。しかし一方の三四郎は「女と何話したらいいかわからんし」と中学生レベルの思考で黙っている。

三四郎はこう云う場合になると挨拶に困る男である。咄嗟の機が過ぎて、頭が冷かに働き出した時、過去を顧みて、ああ云えば好かった、こうすれば好かったと後悔する。と云って、この後悔を予期して、無理に応急の返事を、さも自然らしく得意に吐き散らす程に軽薄ではなかった。だから只黙っている。そうして黙っている事が如何にも半間であると自覚している

迷える子《ストレイシープ》という言葉は解った様でもある。又解らない様でもある。解る解らないはこの言葉の意味よりも、寧ろこの言葉を使った女の意味である。三四郎はいたずらに女の顔を眺めて黙っていた。すると女は急に真面目になった。

「私そんなに生意気に見えますか」

 

 この残酷なまでの見えているものの差が純朴な三四郎をイキ告へと駆り立てる。『三四郎』はイキ告するものとされるものの目線の差が破滅を招く「勘違い型」のイキ告だ。

 別れ際、水たまりを跳び越えようとしてバランスを崩し三四郎の腕の中に飛び込んだ美禰子が再び「迷える子《ストレイシープ》」とささやいたときから三四郎は美禰子に呪縛された。しかし三四郎が恋した美禰子は颯爽と現れた婚約者に連れ去られ、あなたに会いに行ったのですという告白に答えが返ることは永久にない。

 いつの世も恋破れたオタクは思わせぶりな女を「無意識の偽善者」呼ばわりして糾弾するが己の幼さを恥じることはない。

 

『AXIA~かなしいことり~』

ごめんね今までだまってて 今まで彼がいたことを 言いかけて言えなかったの 二度と逢えなくなりそうで

 詩人として90年代に人気を誇った銀色夏生が作詞作曲を手掛けた「AXIA~かなしいことり~」で斉藤由貴は彼氏がいるにもかかわらず男友達から告白された女性の心情を歌っている。

すずしい夜明けの海辺で あなたは子どもみたいね 私はぼんやり遠くを見てた ふたりはかなしいことりね

 二人の関係性は三四郎と美禰子のそれと相似している。二人きりでもどこか達観した女と何も知らない「子ども」の男。

 だが斉藤由貴三四郎の視線に無自覚な美禰子とは違う。

今ではあなたを好きだけど 彼とは別れられない それでもあなたを忘れない ふたりは迷ったことりね

 告白を拒否した上でストレイシープよろしく自分と男を二人とも「迷ったことり」にくくってしまう。一見迷う二人の立場は対等のようだが、彼氏がいるとも知らずに無邪気に恋に落ちた「子ども」の男に対して、斉藤由貴は男の視線に気付きつつ、しかも彼氏と別れられないことを知りながらも、告白させるまで男と遊び続けているのである。無垢なオタクをもてあそび「迷ったことり」の悲しさに酔いしれる斉藤由貴は生粋のオタサーの姫

打ち寄せる波から逃げて あなたの腕に抱きついたのに なぜ見つめたら目をそらすの いつものようにふざけていて

 わざわざ腕に抱きつき、見つめるあざとさを発揮しておきながらいつものようにいろと要求する残酷さがすばらしい。

いつまでもこうしていたいけど 帰れないけど帰るわね これから誰を愛しても ふたりは胸が痛いのね

 ここでもまた斉藤由貴は自分と男を勝手に「ふたり」にくくって「これから誰を愛しても胸が痛いのね」などと決めつけるのである。フラレた上に彼氏がいたことまで知らされ、明らかにオタクの胸が痛いのは今なのに……。

 斉藤由貴はイキ告してきたオタクの心などこれっぽっちも考えない。ただかわいそうな自分の世界の添え物としてしか存在を許されない。気まぐれな神である斉藤由貴に恋をしてしまった愚かなオタクの物語。

「AXIA〜かなしいことり〜」においてイキ告は神話になった。

 

 

AXIA ?かなしいことり?

AXIA ?かなしいことり?

 

 

 

三四郎 (新潮文庫)

三四郎 (新潮文庫)

 

 

 

 

 

映画『勝手にふるえてろ』とパンクブーブーの死

 昨年綿矢りさ原作『勝手にふるえてろ』映画化の報に接したとき、キャストを確認して軽く失望した。

 なぜパンクブーブーがいないのか。

 "ニ"がパンクブーブーではないのだ。黒猫チェルシーのボーカルなのだ。

 自分は原作小説を読んだときから"ニ"を実写化するならパンクブーブーのツッコミしかいないと思っていたのである。勘違いした暑苦しさと、状況に流されないツッコミ力と、コンソメの口臭と……これらを兼ね備えていそうな存在としてパンクブーブーのツッコミ以上の適役はいないではないか。

 "ニ"は主人公のOLヨシカに初めて出来た現実の彼氏であり、ヨシカの10年来の脳内妄想彼氏"イチ"の恋敵である。『勝手にふるえてろ』の物語は俗にいう"こじらせ女子"ヨシカが妄想彼氏"イチ"と現実彼氏"ニ"のどちらを選ぶのかを軸に展開し、"ニ"は夢見がちなオタク女子ヨシカの暴走する妄想に振り回されながらも少しずつヨシカとの距離を縮めていく。自意識過剰のあまりコミュニケーションを恐れるヨシカの被害妄想に"ニ"があきらめずに的確なツッコミを入れていくのが読みどころの一つであり、コミュニケーションのあり方という『勝手にふるえてろ』のテーマの根幹に迫るものである。

 ここには軽快なテンポを緩めないツッコミが可能な役者を配してほしかったのに黒猫チェルシーのボーカル(渡辺大知)……イエモンのトリビュートアルバムでやたらねっとりと「パール」を歌い上げていた印象しかない。

 ついでに言うと主人公ヨシカ役も松岡茉優ではなくコントドラマ『SICKS』で腐女子役を熱演していた千眼美子さんこと清水富美加さんあたりの方がウケるのではとも思った。

 要するに渡辺大知にせよ松岡茉優にせよ、原作小説『勝手にふるえてろ』のポップさを表すには真面目な役者すぎるのではと自分は思ったのだ。とはいえ実際にパンクブーブーのツッコミにまともな演技ができるとも思えないし、詰まるところ『勝手にふるえてろ』の実写化自体に無理があるのでは……?

 

 ここまで書きつつ映画自体は公開のタイミングで見逃してしまい、SNS上で好評を博しているのを眺めているだけだったのだが、最近早稲田松竹で再上映されたので今更ながら観てきた。

  エグ面白。そして怖い。くすりと笑った口もとが曖昧な角度で引きつるような。

 原作から7年の時を経て映画化された『勝手にふるえてろ』が示すのは、オタク女子の敗北であり、失われたパンクブーブー性であり、現代OLが抱える生きづらさの絶望である。

 原作と映画の違いは冒頭のシーンに象徴されている。

 とどきますか、とどきません。光りかがやく手に入らないものばかり見つめているせいで、すでに手に入れたものたちは足元に転がるたくさんの屍になってライトさえ当たらず、私に踏まれてかかとの形にへこんでいるのです。

勝手にふるえてろ』(文春文庫、p7)

 原作『勝手にふるえてろ』は綿矢りさの真骨頂ともいえるこのリズミカルかつシニカルな文章から書き出される。届かないものへの羨望とすでに手に入れたものへの無感動を語る主人公ヨシカはこの冒頭の文章で読者に宣言する

 でも私はイチがよかった。ニなんていらない、イチが欲しかった。

勝手にふるえてろ』(文春文庫、p9)

 原作『勝手にふるえてろ』において現実ではなく届かない妄想を追い求めるヨシカの暴走は自ら選び取られたものだった。

 

 一方、映画『勝手にふるえてろ』の冒頭は、出社前のカフェの店内で地下アイドル風金髪美人ウェイトレスの髪を愛撫しながらヨシカが"イチ"への想いを言い聞かせている場面から始まる。ヨシカはカフェの店員、公園で釣りをしているおじさん、変な髪型のコンビニ店員、車掌、バスで隣に座るおばさんに自分の想いを語りながら会社に向かう。

 この後も映画前半で繰り返される光景だが、実はこの冒頭のシーンはすでにヨシカの妄想の中である。他人に声をかける勇気がないヨシカは通りすがりに見かけるちょっと気になる人を脳内で勝手に知り合いにして、自分の話を語り聞かせる妄想をしていただけだったことが、映画中盤で明かされる。

 冒頭の時点で観客はヨシカが一方的にモブに話しかける場面にうすうす違和感を持ちながらも、これが妄想の世界の中だとは気付かない。

 映画『勝手にふるえてろ』 では、妄想はいつの間にか迷い込まされた現実と紙一重の世界であり自覚的に宣言されることはない。

 小説の読者は冒頭でヨシカが選び取った妄想と、現実に対して吐かれる毒を安心して楽しむことができる。映画の観客はヨシカの妄想世界に違和感を持ちながらも迷い込み、妄想が破られていく悲痛を同じように味わっていく。ギャグシーンが笑えない不気味さを帯びてゆく。

 ヨシカを妄想世界に追い込んでいくのはBGMも鳴らない職場の現実だ。玩具メーカー経理部では無数の女性たちが機械のように電卓を打ち込み、洗面所で唾を吐き出し、光の届かない休憩室でスケジューリングされた睡眠をとる。6時の時計の針のように身体を"イチ"の形に伸ばしたヨシカは"イチ"と過ごした中学時代の夢に逃げるが、その夢もスマホのアラーム画面が光って破れ、再び職場に連れ戻される。

 そこで出会った"ニ"は一方的な好意からヨシカに付きまとい、"イチ"との再会を目論むヨシカのプライベートを侵犯していく。

 映像化されたヨシカが生きる現実はあまりに窮屈な生きづらさに満ちている。原作を超えるこの絶望的な生きづらさは、2017年の社会を反映している。

 終盤、休職を決意したヨシカが「赤の他人に這いつくばらせて平気でてめえのゴミの回収させてる人間が他人に好かれようなんて虫が良すぎたわ」と自分と職場と社会への呪詛をぶちまけるセリフに、この映画が吐き出し続けた現代社会への批判が凝縮されている。

 

 自ら妄想を選び取るオタク女子の強さはそこにはなく、現実の生きづらさから逃げ込まざるを得なかった妄想さえも破壊される、オタク女子の敗北だけが残った。

 ポップな毒は失われ現実の痛みが胸を刺す展開にパンクブーブーが入り込む余地は最早ない。

  原作が映画に変わる7年の月日の間に、パンクブーブーは死んでいた。

勝手にふるえてろ [DVD]

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勝手にふるえてろ (文春文庫)

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オーラル・ヒストリーは『ねほりんぱほりん』他に追い付けるか(大門正克『語る歴史、聞く歴史』)

 話を聞くのが苦手だ。いや話すのも得意ではないが。自分の持っているエピソードのストックを放出するのは欲するところなのだが、他人の話を引きだしたりふくらませたりということをあまり欲せざるような案配なので会話が続かない。質問力、傾聴、絶無。コミュニケーション・バリアフル。

 そうした人間なのでオーラル・ヒストリーや聞き書きなどの学術調査にせよ、ドキュメンタリー番組やバラエティ番組のスタッフにせよ、すべてインタビュアーという人間は尊敬する。この人たちのおかげで自分は安全なままに誰かの人生を感受して笑ったり泣いたり憤ったりできているのである。

 拒絶されるかもしれない危険を冒して他者の人生を引きだす勇気と技術は研究者もテレビスタッフも変わらないはずだが、オーラル・ヒストリーや聞き書きなどの方法への関心が高まる一方でドキュメンタリー番組やバラエティ番組の「調査」は別物扱いされがちな気がする。

 

 幕末維新の回顧録や遠野物語から現在の介護現場での聞き書きによる介護民俗学まで含めて日本の「語る歴史、聞く歴史」の歴史を追った大門正克『語る歴史、聞く歴史』はめちゃ良い本だが、それでも記録映画やラジオ・テレビといった音声・映像メディアの作品や意味は全く触れられていない。

 

語る歴史,聞く歴史――オーラル・ヒストリーの現場から (岩波新書)
 

 

 しかし本来「語る、聞く」という行為との親和性が圧倒的に高いのは文章よりも音声・映像の方なんじゃなかろうか。

 

 『語る歴史、聞く歴史』は日本の聞き取りによる歴史を偉人、政治家、著名人などのエリートを主な対象にして政治、行政、ジャーナリズム、社会運動などの記録に重点を置いたものと、労働者、女性、在日外国人などの抑圧された人々を主な対象にして体験を聞くことに重点を置いたものの2パターンに分ける。

 体験を聞く歴史は「語り手の身体や感情とともに存在」しているため、著者は語り手と聞き手がつくりだす<現場>を重視する。それならばなおのこと、語り手と聞き手の言葉を超えた身体を映し出し視聴者が<現場>を疑似体験できる映像メディアの役割は大きいはずだ。<現場>の再現という点では文字は映像にどうしても勝てない。

 逆に文字で<現場>を叙述する利点というのを考えてみると、「匿名性を維持できる」ことしかないように思える。全て映してしまう映像に対して、文章はどこまでもイメージなので。これは特に抑圧されてきた人々の声を聞くならば大切だろう。

 

 こう考えるとNHKEテレでやってる『ねほりんぱほりん』は人形劇をかませることで「身体や感情」を再現しつつ匿名性の維持にも成功しためちゃくちゃ画期的な番組であることに気付く。「元薬物中毒者」だの「偽装キラキラ女子」だのを社会の病理としてではなくひとつの人生として扱える『ねほりんぱほりん』は日本の「語る歴史、聞く歴史」の最前線にあるに違いない。 

 

ねほりんぱほりん ニンゲンだもの

ねほりんぱほりん ニンゲンだもの

 

(教育テレビ人形劇のノウハウをこんなゲスな番組に投入してしまってめちゃくちゃ怒られてそう)

 

 ドキュメンタリー番組やバラエティ番組は扱う対象の点でも「語る歴史、聞く歴史」の最前線にある。先程の2パターンでは、エリートにせよ抑圧された人々にせよ、何らかの”特別な”経歴を持つ人が聞き取りの対象になっていた。しかし最近のドキュメンタリー・バラエティでは偶然性を企画に取り入れることで”特別でない”人を取り上げることが主流になっている。

 例えばテレ東の『家、ついて行ってイイですか?』やNHKの『ドキュメント72時間』が思い浮かぶ。『家、ついて行って』は終電を逃した状況、『72時間』は街角の場所に最初の視点を置くことで、”特別でない”人(もちろん放送されるのは十分個性的な人が多いが)を取り上げることが可能になっている。

 

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(「家、ついて行ってイイですか?」って、そういうビデオの導入じゃん)

 

こうしたドキュメンタリー番組やバラエティ番組が「語る歴史、聞く歴史」の中でもちゃんと評価されるようになればいいのにな、いいのになと思っている。おれは安全なままに誰かの人生を感受していたいので。

 

GALAC 29年12月号

GALAC 29年12月号

 

  (新型ドキュメンタリー最前線…未読だけど似たようなこともう言われてたら恥ずかしいね)

朝ドラが嫌い(佐藤卓己『青年の主張 まなざしのメディア史』)

 朝ドラが嫌いだ。

 朝ドラを嫌いな人間にとって家族そろっての朝の食卓は一家団欒の証ではなく、不愉快な一日の予告編でしかない。わが家の食卓でもいつも朝ドラが流れていたが、町子だの陽子だの梅ちゃん先生だのの恋の行く末や事件の展開について語り合う両親の会話をよそに、不機嫌に黙り込んでただ食物を咀嚼し続けるだけの15分間を毎朝過ごしていた。

 一年の計は元旦にあり。ならば一日の計は朝食にあるはずで、その時間を不機嫌なまま過ごすことはその日一日の不調につながり、それが毎朝続けば人生全体の不調につながるに違いない。朝ドラの存在が少年時代の自分の人格形成にマイナスの影響を与えた可能性だってあるのだ。

 

 清く明るく美しく、どんな困難にもめげずに立ち上がり、小さいけれどたくましく自分の人生を懸命に歩んでいきます! こうした主人公像は多かれ少なかれ朝ドラを見たことがある人の多くに共有されていると思う。

 2010年ごろ、「海空花子」というネタを吉本のアロハという(もう解散してしまった)コンビがやっていた。どんな時でも全力ダッシュ、唐突に「うちには夢があるんです」と語り出す、失敗を注意されても「うち、関西出身やから」、工場のライン作業でも「ひとつひとつに魂込めたいんや!」、「上を向いて歩こう」を大声で歌い、「うちはダルマや、転んでも起き上がる、海空花子です!」…

 このネタが成立するのも観客に”海空花子”的ヒロインのイメージが共有されていたからだ。もちろん「最近の朝ドラにはそんな主人公はいない」という声はあるだろうが、実際のドラマの内容ではなく視聴者のイメージとして”海空花子”は存在する。

 YouTubeから直接開かないと再生できないみたいですが、一応)

 

 自分が朝ドラを嫌いなのもこの現実離れした模範的少女”海空花子”が鼻につくからだとずっと思っていたが、どうも少し違うことに佐藤卓己『青年の主張』を読んでいて気が付いた。

 

 佐藤卓己『青年の主張 まなざしのメディア史』は朝ドラと同じNHKの国民的番組として1955年から1989年(後継番組の「青春メッセージ」は2004年)まで放送された「青年の主張」を「内容・真偽」ではなく「形式・影響」に注目して研究したメディア史の本。毎年成人の日にNHKホールから生中継された「青年」たちの主張とそれに対する反応の変遷が全年度にわたって詳しく分析されており、「青年」から「若者」への若年層の拡大と主体の変化や「感動ポルノ」、「意識高い系」といった現代の若者・メディア論につながる部分もあって面白かった。430ページは分厚いけれど。

 小学生の少年T、つまり著者が「青年の主張」に興味を持ったきっかけは、お茶の間でこたつに座りながら番組を見ている時に背中に感じた「教育のまなざし」の居心地の悪さだという。サブタイトルにも掲げられているその「まなざし」とは、「青年の主張」出場者に向けられた年配世代のまなざしであり、成人の日の新聞の社説や国会前デモに参加するSEALDsに感激する高齢者が若者に向けるまなざしと同類だ。

かつて少年Tが感じた「居心地の悪さ」を私はようやく言語化できるようになった。しばしば指摘される「青年の主張っぽい」内容でも、あか抜けない発話スタイルではなく、それを優しく、かつ無責任に直視できる大人のまなざしに少年Tは反発していたのである。そのまなざしの求めに応じた青年の側にも責任はあるとしても、この「まなざしの共犯関係」でより大きな責任を問われるべきは大人の視聴者、それを伝えたメディアである。 (p17)

 

 自分も少年Tと全く同じだ。自分が朝ドラを嫌いな理由も、”海風花子”が嫌いだからではなかった。”海風花子”を無責任に肯定できる大人のまなざしに反発していたからだった。

あまちゃん」ブーム以来人気が復活したといわれる朝ドラだが、その物語が依然として主人公の人生を演じる女優と同じ10代後半~20代の若者ではなく年配世代のまなざしに支えられているのは明らかだろう(次作「半分、青い。」の宣伝文を見よ!)。

失敗って、楽しい。今日とは違う明日が、きっと見つかるから――

私たちの社会は、いつから失敗を恐れ、許さないようになってしまったのでしょう。そんな社会は窮屈です。

故郷である岐阜県と東京を舞台に、ちょっとうかつだけれど失敗を恐れないヒロインが、高度成長期の終わりから現代までを七転び八起きで駆け抜け、やがて一大発明をなしとげるまで、およそ半世紀の物語を紡ぎだしていきます。

何かを半分失っても、ほかのやり方で前に進めばいい。

あぶなっかしくもバイタリティーあふれるヒロインの冒険が、2018年の朝を明るくします。 

(引用:《平成30年度前期 連続テレビ小説》は北川悦吏子さんのオリジナル作品に決定! 半分、青い。 |NHK_PR|NHKオンライン

 

 しかもそこには「教育のまなざし」だけでなく、舞台となる古き良き時代への「郷愁のまなざし」も加わってくる。それに応えようとする限り、東京五輪大阪万博、平成改元とメモリアルなイベントが近付くたびに「ALWAYS」的で「海空花子」的な朝ドラが出てくるんだろうなと思う。

 

青年の主張:まなざしのメディア史 (河出ブックス)

青年の主張:まなざしのメディア史 (河出ブックス)

 

 

ハレグゥとスペシャル

 トーチwebで連載中の平方イコルスンスペシャル』を2巻まで読んだがめちゃ良かった。変と和(なご)がそのまま共存しとる世界。特に2巻で葉野が一歩踏み出す時の臆とか悔とか勇とか「仲良くなる」ってこういうことだよなー、って感じでコミュニケーションの教科書として義務教育に組み込んでほしいくらいだ。

 

 ところで自分は金田一蓮十郎の『ジャングルはいつもハレのちグゥ』を幼児のころから刻まれて育ったのでギャグやコメディを読むといつもハレグゥを思い浮かべてしまうのだが、スペシャルは特にハレグゥと似ていると感じた。

 ハレとグゥ、葉野と伊賀のふたりが出会うところから物語が始まり、個性的な(というか”変”な)周囲の人々とのエピソードを重ねながらふたりの関係性が深まっていく基本的な流れだったり、物語の核になるグゥや伊賀の謎に拘っているのがハレと葉野だけ(正確にはグゥの謎は周囲に認識されていないが、伊賀の謎は当然のこととして受け入れられていて周囲の誰も謎として扱っていないという違いはあるが)だったり。

 そういう登場人物の関係性や構図が似ているのもあるけど、常識人ポジション(『ハレグゥ』後半のハレは常識人ではないと思うが)であるハレと葉野の人間関係に対する真摯さというか気の回し方が近いと、葉野がヘルメットについて訊ねることで嫌われるのではと臆病になるところや自分の言動を「自戒せい」とつぶやくところに感じる。

 ギャグ世界のハレはツッコミという力で関係性の壁を超えられるけど、葉野はそのツッコミも持たない。だからこそ壁を一つ乗り越えたときの「何つー安堵だ……」の独白にめちゃくちゃ感動してしまったのだった。

 

スペシャル 2 (torch comics)

スペシャル 2 (torch comics)

 

 

 Amazonに紙媒体の取扱いがないということは電子版を出して絶版になったのだろうか。地味にショック)

 

おたくたちのセーラー服と機関銃

 最近『セーラー服と機関銃』という映画を観た。橋本環奈や長澤まさみではなく薬師丸ひろ子主演のやつだ。

 薬師丸ひろ子の無垢な可愛さと二作目の相米慎二監督ら演出を手掛ける大人たちのギラギラに尖った暗いエネルギーが互いを際立たせていて面白かった(中高生のときに前情報なしでいきなり見せられたら、は? となるだろうなとも思った)。

 

 映画の中で一つ気になったのは薬師丸ひろ子が何度も呼びかける「おたく」という言葉だ。もちろん現在の声優オタク、プラモオタク、アニオタ、ドルオタ……といったある分野の重度のファンを意味する「おたく」ではないし、キモイやつという蔑称としての「おたく」ではない。そうした意味を与えられる前の、ただの二人称としてのおたく、いわば原「おたく」である。

 

 おたくが今のような意味で使われるようになった起源には諸説あるが、Wikipediaに紹介されている

 1983年中森明夫が『漫画ブリッコ』のコラムでコミケに集まる集団を「この頃やたら目につく世紀末的ウジャウジャネクラマニア少年達」「友達に「おたくら さぁ」なんて呼びかけてるのってキモイと思わない?」と評し、「彼らをおたくと命名する」と蔑称・名詞として用い、以後アニメ・SFファンはおたくを自認するようになった 

というのが一番メジャーな説だろう。で、なぜ当時のマニア少年が「おたくら さぁ」という二人称を使っていたかというと、「君」「お前」「あなた」といった言葉につきまとう上下関係を超えて、対等な関係を築ける呼びかけとして使われたらしい(これもWikipedia説)。

 一方、ネットに上がっている実際におたくだった人たちの見解は

わたしが知る限り、所謂おたくの人々に「おたく」という二人称を使わしめるきっかけとなったのは平井和正である。
 (……)彼に「ウルフガイ・シリーズ」という佳作がある。これは不死身の狼男が主人公である一連の(正確にはニ連の、である。そんな言い回しはないが)ハードボイルドSFなのだが、その主人公犬神明が「おたく」という二人称を使っていた。私が中学高校の頃には私を含めこの作品に影響を受けた友人が多数おり、我々の間で「おたく」という二人称がしばしば使われていた。同じような人間は全国に多かったのではないかと思う。(Sorekika 【第78回】

 

超時空要塞マクロス』のヒカルというキャラクターは、相手に対して使う第二人称として「おたく」という言葉を用いた。元来これは、ちょっと不良っぽい、もしくはヤクザがかった人が斜に構えて相手に声をかける場合に使う第二人称の呼称であり、少なくとも当時はこの言葉はなかなか格好がよかったため、ニヒルを気取った者は結構よく使っていた。当時アニメファンだった連中は、内心自分はインテリだと思って気取っていたせいか、この言葉を好んで使う傾向があった。 (WWF No.17 用語解説「おたく」

 といったものだ。また、上に挙げた二つのサイトでは岡田斗司夫の「そもそもおたくはコミケなどで見ず知らずの人間と積極的にコミュニケーションをとる。そのときに用いる二人称が『おたく』なのである。即ち『君』や『おまえ』が通用しない非日常の空間に多く接するのであるから、おたくという人種は一般の人間以上に外向的であるのだ」という「おたく肯定論」が紹介されている。

 

 まとめると

・おたくという二人称は『ウルフガイ・シリーズ』(1971~1995年)や『超時空要塞マクロス』(1982~1983年)といったオタク的作品を通して全国のアニメ・SFファンに広まっていた

・君やおまえと異なり上下関係を含意しないおたくは、コミケなどであまり親しくない人間同士が対等なコミュニケーションを築いていく際の呼びかけとして好都合だった

・おたくという二人称を使うような人々を指す言葉として1983年に中森明夫が「おたく」を提案し、蔑称として定着した

といった感じだろうか。

 

 いよいよ本題だが、映画『セーラー服と機関銃』(1981年)で「おたく」という呼びかけは上に挙げた「あまり親しくない人間同士が対等なコミュニケーションを築いていく」意味で使われているのだろうか。

 

 映画の中で「おたく」という言葉は、星泉薬師丸ひろ子)から相手への呼びかけとして同級生三人組へ2回、舎弟のヤクザへ2回、敵対する浜口物産の連中へ1回、計5回使われている。

 この内同級生三人組は高校での泉の友達、というより校門にヤクザが押し掛けてきた際の「泉ガードして帰るべ」や「(泉は)他をあたらなくてもさ、3人確保してるわけだもん、恋人」というセリフから今でいうところの姫と囲いのような関係がうかがえる。

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柳沢慎吾が同級生役で出演。この映画の登場人物では演技も役柄も一番まともな方である。画像は2000年のDVDから)

 泉は彼らに対して「おたく」と同じニュアンスで「ユーたち」というジャニーさんのような呼びかけをしている場面もある。

 

 舎弟へおたくと呼びかけるシーンは中盤に1回、終盤に1回、いずれも泉が目高組四代目組長として彼らと打ち解けた後に出てくる。

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(最後の殴り込み中にのんきなやりとり。クルージングとはゲイのこと)

 これらの場面から、同級生にせよ舎弟たちにせよ親しい仲の相手に対して気軽な呼びかけとしておたくが用いられており、親しくない人間同士の呼びかけという説明は当てはまらないことがわかる。泉は反発している父の愛人マユミ(風祭ゆき)に対しては「あなた」と呼びかけており、おたくはむしろ親しい仲の相手に対してだけ使われているように見える。

 一方で舎弟たちにも友達のように接しようとする泉が、組長と舎弟という上下関係を超えた対等な仲間への呼びかけとしておたくを使っているとは言えるだろう。

 

 しかしおたくが親しい相手への呼びかけとしたら浜口物産への殴り込みで”クルージング”の政(大門政明)が殺された怒りから「死ねば、おたくら!」と叫んだことは矛盾しているように思える。

f:id:yudoufuksk:20170810034226p:plain(カ・イ・カ・ンの後オタクを罵倒する薬師丸ひろ子

 この「おたくら」は「あんたら」ぐらいのニュアンスだろうか。他の場面での「おたく」も「あんた」と同じようなフランクさであり、おたくという呼びかけの特徴は他人行儀な「あなた」などとは異なる気軽さにあるのかもしれない。

 

 『セーラー服と機関銃』における二人称「おたく」は現在のオタク論で語られるものとはニュアンスが異なり、上下関係を超越した(多くは親密な相手への)気軽な呼びかけであった。

 そして、中高生の間で大ヒットした『セーラー服と機関銃』が『マクロス』や『ウルフガイ』と同じように1983年以前におたくという二人称が日本各地で使われ出す原因になった可能性もあるかもしれない。

 

 ところで、引用させてもらったSorekika WWFといったサイト(同人サークル?)の記事は1998年、1997年に書かれたインターネットの遺物のようなものだが、少なくとも1983年の「おたく」誕生以前からおたくであったこれらのサイトの人々がオタクが市民権を得た2017年の今何を思っているのか、それが今度は聞いてみたくなってしまった。

 

 

「おかげサマー」考―広瀬と前田が出会うとき―

 もう12月、「冬が寒くって本当に良かった」とか言い出した輩を燃やして暖を取りたい季節になってきた。

 しかし人間とは過ぎ去った季節を懐かしむもの。ここは敢えて夏を懐かしむしかない。TUBEを聴くしかない。という訳で今年の夏に出たTUBEの30周年記念アルバム「Your TUBE+My TUBE」を今さら借りてきた。

Your TUBE + My TUBE

Your TUBE + My TUBE

 

 

 「Your TUBE」と「My TUBE」の二枚構成になっているこのアルバム、目玉は何といっても 15組のアーティストが書き下ろした新曲をTUBEが歌うYour TUBEだろう。玉置浩二奥田民生といった大御所の作品や、作詞TAKURO(GRAY)作曲松本(B'z)、作詞大黒摩季作曲織田哲郎の共作まであって実に豪華なラインナップになっている。

 では早速収録順に聴いてみよう。一曲目は作詞・作曲広瀬香美の「おかげサマー」で・・・・・・ん?

広瀬香美

そして流れ出したのは馬鹿に陽気なサックスを吹き鳴らすイントロ。一瞬己の目を(いや耳を)疑ったが、なんとあの冬の女王広瀬香美TUBEに曲を提供していたのだ。

 この「おかげサマー」曲の方はイントロから伺えるとおりハイテンションで唐突に高音を張り上げる香美イズム全開の作品になっているのだが、それに輪をかけて詞の方がすごいことになっている。

 全体を通して見ると陽気なサラリーマンが周囲の仲間に支えられながらがんばるという内容になっていて、30周年を迎えたTUBEに対する応援メッセージとしてそれはそれでいいのだが、注目していただきたいのはそのサラリーマンの”がんばり”っぷりなのである。

 まず一番のAメロ、主人公の男は大事な会議の日に遅刻しそうになるのだが

ヤな予感して飛び起きた アラーム悲鳴あげてた

ドッと家を飛び出した でも遅刻は決定だ ヤッベェー

 全くヤバさを感じられない。

優しいあの子にメールした 会議資料お願いします

オッケー すぐ返事が来た

今日のランチ高くつくっぜ ベイベー

  イラッ!ここのところ、文字にするとそれほどでもないですが、実際の歌い方を聴くと相当イラッとします。しかしこの”ダメ親父”感は二番に入ってさらなる進化をみせる。

上司にこっ酷くやられた 絶望的に落ちてた

ランチに行こうあの子から 甘い声で誘われた いいねー

やっぱ俺にホレてるでしょー 永遠は偶然の産物

アクシデントもチャンスに変えて 起死回生があるからやめられられない

 はい、ここまで読んだOLの皆さんは「ああ、職場にこういうおっさんいるよね・・・」と思ったのではないでしょうか。そう、この歌に出てくる”がんばる”サラリーマンは若手にウザがられそうなちょっと面倒くさい中年男性なのだ。バブル時代のイケイケ感が今でも通用してると思ってそうな、飲み会に参加するのは当然の義務だと思ってそうな、最近の新人は元気が足りないまずは挨拶からだオハヨウ声出してけとか思ってそうな、若い頃の文化を捨てられないまま時代の変化に取り残され、置いてけぼりにされたことにも気づかずに道化を演じている少し悲しいおっさんだ。

 そしてそれはTUBEに対する批判的な見方からのメタファーにもなっている。広瀬香美がそこまで計算してこの楽曲を作ったのならすごいと思うと同時に底意地の悪さを感じるが、恐らく彼女はこんな受け取られ方をするとは意識していなかったにちがいない。TUBEが歌うならこんな感じだろうというのを想像していつも通りに作ったのだろう。その広瀬の曲と詞を前田亘輝が歌ったとき、曲の明るさと前田の故意におっさんを強調するような歌い方、そして聴く側のTUBE・広瀬に対して抱くイメージ(バブリー、夏/冬の枠から飛躍できない色物)が作用しあって、滑稽なまでに陽気で一つずらせば皮肉になりかねない曲が生まれたのだと思う。

広瀬香美とバブルについてはこちらのブログが興味深い考察をされていた

バブル文化って何だったのか - arwtw

 一点の曇りもない秋の青空は不安を秘め、底抜けの明るさは哀愁を感じさせる。広瀬香美前田亘輝の出会いもまたかくあるものなのか。 

Your TUBE + My TUBE(初回生産限定盤B)(DVD付)

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 (初回生産版。パッケージはお中元をイメージしたらしい)

 ちねみに僕は広瀬香美TUBEも好きだし「おかげサマー」も嫌いじゃないです。YourTUBEだとクレイジーケンバンド横山の「タイムトンネル」と玉置浩二の「スコール」が良かった。